夜中に気持ちを吐き出したくてかいたエッセイ。 どこかに応募したいのだけど、ジャンルがわからなくてここに。 --- こころのゆきさき 僕のこころの行き先は、どこだろう。 僕のこころが僕自身どこへ向かうのか、わからない。 僕のこころのなかみは、なんだろう。 何をしても、こころの充足感を得られない。 小学生時代 きよたは十二歳になった。小学校も6年生になり、来年からは少し遠くの中学校に通うことになる。 「きよたくんは塾にかよいはじめたの?」 同級生の中でも大人びたかよが、きよたに訊ねた。 「…うん、そうです」 同級生なのに変なの、と、きよたの敬語にいぶかしんだかよは、他の女子との会話に戻ったようだった。 (変、、、かあ) きよた自身、ある日いきなり、同級生たちとタメ語を話せなくなったことに戸惑っていた。 というよりも、タメ語で話すことに違和感をおぼえたのだ。 (…?) きよたは自分のこころがあると教わった胸に手をあてて、考えてみる。でも、何か嫌なことがあったのだとか、きっかけがあったようには思えないのだ。 (僕のこころはどうしちゃったのだろう) 中学生時代 中学校では「さん付け」で互いに呼びましょう、という指導がされた。これによってきよたは幾分か友人とおしゃべりをするのが楽になった。相手と話す際に、苗字+さんでよいのは、小学校の時のあだなであったり、呼び捨てであったり、という呼び方にできなかったきよたにとって好都合であった。ただ、会話のなかみを話すにもずっと敬語になってしまう。 中学校でもきよたは周りから浮いた存在だった。 このころから、きよたには自分から思考が離脱する癖がつき始めた。きよたは自分が周りから浮いた存在と自覚しつつも、それを改善しようとしなかった。きよたが周りに陰口を言われていることを、きよた自身が他人事のように俯瞰するようになった。 きよたの「こころ」は、自分がいじめられていることを認識しなくなっていった。 建て前を覚えた高校生時代を経て、大学生時代 大学生になりおとなになっても、きよたには自分自身を俯瞰する癖が抜けなかった。このころになると、きよたの斜め後ろからきよたをのぞむ「きよた」がいる、と認識していた。高校生、大学生の間に、きよたは「思ったことをそのままいうのは時として不適切であること」「本音と建て前というものがあること」を認識した。この認識は、きよたに仮の面をつけさせることとなった。きよたが認識に基づいて友達と会話しようとすると、きよたはきよた自身の言葉で話せていない感覚に陥った。また、友達は仮面のつけたきよたからどんどん遠ざかった。「きよた」は遠ざかる友達の背中を、ただじっとみつめるきよたをみていた。 この時にはもうきよたは、自分のこころは「きよた」のものであり、自分のこころとは別の「こころ」があるのだと認識し始めた。 ぼくは、ぼくのこころは、こんなにも“さびしいのに” 「きよた」は、「きよたのこころ」は、ただ、じっとみているだけなんだ。 社会に出て働いて、旧来の友達と話をしても、 ぼくのこころには、いまだに「きよたのこころ」がいて。 友達と真の心とぼくのこころとが触れられない寂しさ、孤独感がつのる一方で、きよたのこころは何も感じないでいる。 ぼくのこころは、この先どうなっていくのだろう。 社会人に慣れたきよた ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 社会人を何年も過ごしていると、常に敬語で会話をする友人的存在に出会うこととなった。主には仕事仲間のうちいわゆる馬の合う人間に出会ったのである。きよたはこの人間と過ごす時間が好ましいと感じ始めた。 幸いこの友人的存在はきよたの陰口をたたいたり、きよたを疎ましいと感じるということすら認識していないようだった。「きよた」の「こころ」は変わらず、この友人的存在に対してもじっと見つめるのみであったが、きよたのこころは孤独を感じることが少なくなっていった。 ぼくは、ぼくの心のままに友達と敬語を話して距離を作ってしまったけれど、それによって「きよた」とその「こころ」がうまれてしまったのか・・・? 「きよた」、きみはぼくのこころを守るために生まれてきてくれたのかい? 「きよた」も「こころ」によってぼくを俯瞰してくれたよね。 「きよた」「こころ」 ありがとう 現在 現在の私には、幽体離脱のような症状がはっせいすることがなく、また旧来の友人ともタメ語で話せるようになった。しかし、例えば何か仕事で情報が共有されないなどの孤独感を覚えるときに、「きよたのこころ」が頭を出す。彼らにはまだまだ心配されているようだ。
- 三波さおり