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第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「なかったことに、——もう一つの疫病禍」いちはじめ

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作文・エッセイ
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第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「なかったことに、——もう一つの疫病禍」いちはじめ

 食堂の雰囲気は、妙にざわついていて落ち着きがなかった。

 食べることが仕事と言ってはばからない同僚も、普段は口の周りの汚れも気にせず、豪快に食べ散らかしているところだが、今日は食が進んでいないようだった。

 どこか調子でも悪いのかと聞いてみると、声を潜めて話し始めた。

「お前、渡辺さんちの件聞いているか?」

 やはりその件か。食べ物のことしか興味がない同僚の耳にまで届いているとは、噂が拡がるのは早い。俺は食物を咀嚼しながら、ああと答えた。

「疫病が発生しているらしいじゃないか、お前よく平気で食事なんかできるな」

 同僚は深刻な顔をして俺をのぞき込んだ。彼の顔は少々青ざめているようだ。

「ここから八十キロは離れているんだ。そう心配することはないさ。それにここは厳重な検疫体制を引いている。お前も良く知っているだろう」

 そう、俺たちの会社は、近年検疫に神経質なほど気を使っていた。外部からの訪問者には——なじみの出入り業者やその車も含め——きちんと消毒の手順を踏ませ、さらには定期的な施設への消毒や、健康診断も行っている。それがストレスだと、ぶうぶう不満を漏らすものもいるが、このご時世そのくらいのリスク管理が必要なのだ。

「それは分かっている。けど心配なんだよ。噂では他の県では死者が出たそうじゃないか」

「前にもそんな噂があったが、何にもなかったじゃないか、心配のし過ぎだ。それより食が細くなると仕事に支障をきたすぞ」

 彼はそうかなと言いながら、再び不安そうに俺に話し掛けてきた。

「これまで度々疫病が発生しているのに、なんで衛生局は、ワクチンを作って俺たちに打たないんだろう。それだけでリスクは大幅に減るのに、何か理由があるのかな」

 そのことについては、俺も常々疑問に思っていた。ワクチンさえ接種すれば、金の掛かる厳重な検疫体制を敷く必要はないし、何よりびくびくする必要はなくなるだろうに。

 俺たちの会話を、横で聞いていた別の同僚が、会話に加わってきた。

「この国は、疫病リスクがないということを海外へ示すために、ワクチン接種は不要というスタンスなんだ。だからワクチンは打たないんだとさ」

 おいおい、これまでに発生した疫病は、なかったことになっているのか。呆れたもんだ、いかにもお役所が考えそうなことだ。

「ホントかよう。だけどそれで本当に疫病が流行したらどうするんだよ」

「だからこそ民間で、過剰なくらい検疫に気を使っているんじゃないか」

 同僚は納得していないようだったが、残りの食べ物を一気に掻きこむと、腹いっぱいになったから昼寝だ、と言って席を立った。

 同僚と、昼食後の混雑する通路を歩いていると、顔見知りの一人が声を掛けてきた。

「おい、さっき重機がやってきて何やら大きな穴を掘っているぞ、何か知ってるか?」

 施設を増設するんじゃないかな、と同僚たちは話していた。しかし俺は、これまでの疫病の噂に付随していた、奇妙な都市伝説を思い出していた。それは、——深く大きな「穴」と白い「幕」を見たものは助からない、というものであった。

 ——まさかな……。自分自身の考えに苦笑していると、他の同僚から、もうじき消毒が始まるという話がでた。定期消毒の日ではないはずだが、と疑問を呈すると、彼は白い防護服を着た職員がいたからと答え、さらにこう付け加えた。

「それに自衛隊の人が会場を設置していたよ。ワクチンでも打ってくれるんじゃないかな」

 そこへ防護服に身を固めた管理職の人間がやってきて、沈痛な面持ちでこう告げた。

「今から疫病対策として、お前たちに予防処置を施すことになった。処置はほんの一瞬だ、あわてず、騒がず、落ち着いて受けてくれ」

 職員に促され、俺たちは会場へと続く通路を次々と追い立てられていった。そしてその通路は白い幕で覆われていた。

 ——深く大きな「穴」と通路に張られた白い「幕」、俺の背中に冷や汗が流れた。

 恐ろしくなった俺は、途中で通路を抜け出したが、すぐに捕まり会場に戻された。その時、幕の合間から見えたのは、ぐったりした同僚たちが次々と穴に放り込まれていく、恐ろしい光景だった。

 二人掛かりで押さえつけられた俺は、キーキーと泣き叫ぶことしかできなかった。そして俺のこめかみに、電極が押し当てられた。

 俺の体を押さえつけていた年配の自衛隊員が、もう一人の若い隊員にこう声を掛けた。

「一万頭の予防殺処分だ。今後半年は豚を食えなくなるからな、覚悟しておけ」

(了)