第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「サイコロ」武庫川珠緒
景色はどこまで行ってもかわり映えのしない雑木林が続いていた。俺はずっと同じ所を歩いている錯覚に陥った。
「このままここから出られないのか?」
一旦立ち止まって耳を澄ますと、かすかに水音が聞こえた。途端に俺は強い喉の渇きを覚えて、音のする方に歩みを速めた。
しばらく進むといきなり視界が開けて、目の前に澄んだ小川が現れた。俺は小走りで川岸に近づきひざまずくと、両手で水をすくって何回も口に運んだ。
気持ちはいくらか落ち着いた。顔を上げると、グレーの雲で覆われた空が低く迫ってきて、生暖かい風が俺の頬を撫でた。
ふと背後に人の気配を感じた。と同時に、ザッと地面を踏みしめる音がしたので、俺は素早く振り返った。
そこには、黒いスーツを着た長身の男が立っていた。
「あんたは?」
「私はディーラーです」
男は口元をゆがめて微笑んだ。眉間にしわを寄せた俺にかまわず男は続けた。
「ここにサイコロがあります」
いつの間にか、俺と男の間にカジノテーブルが用意されていた。
「さあ、サイコロを振ってください。出目が奇数ならあなたはこの川を渡ってあちらの世界に、偶数なら元いた世界に帰っていただきます」
「なんで俺がサイコロを振らなくちゃいけないんだ?」
「なんで? あなたの大好きなギャンブルで運命を決めるのも悪くないでしょう」
男はクックと笑った。
俺は憮然としてサイコロを掴むと、ゆっくりと目をつむった。
『いつまでもこんなところを彷徨っていたくない。出目は奇数。川を渡ってあっちの世界に行く』
振ったサイコロは勢いよく転がり、やがて止まった。俺は息をのんだ。
「四。偶数です」
男の乾いた声があたりに反響すると、たちまち俺の体は真っ赤な炎に包まれた。
ピッピッという規則的な電子音が聞こえる。
俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。白い天井が眩しい。
白衣を着た男女が横から顔をのぞかせた。医師と看護師のようだ。
「やっと目が覚めましたね。もう大丈夫ですよ」
医師がにっこりとした。
俺の体は包帯でぐるぐる巻きにされて、何本ものチューブにつながれていた。手足は動かないし声も出ないので、ただじっとポタポタと落ちる点滴を眺めていた。
あれは夢だったのか?
会社をリストラされ、再就職にも失敗した俺は、競馬にパチンコ、競艇に競輪、ありとあらゆるギャンブルにはまった。
妻はそんな俺に愛想を尽かし、離婚届を残して子供と一緒に家を出て行った。
遊ぶ金が尽きると、サラ金から金を借りた。負けを取り返すには大きく勝たなくてはいけない。俺は違法カジノで勝負に出た。
しかしこれが運の尽きだった。とうとう闇金にまで手を出して、借金は減るどころか雪だるま式に膨らんでいった。額が増えるにつれ、闇金の取立ては想像を絶するものになった。
逃げ出したい――。
にっちもさっちも行かなくなった俺は、近くの川原で灯油を被り、自分の体に火をつけた。
看護師が包帯を換えながら微笑んだ。
「動けるようになったら毎日リハビリですよ。辛いかもしれませんが、がんばりましょうね」
俺は小さくうなずいた。
『まさか三途の川でサイコロを振ることになるとは思わなかったな……』
最後の賭けに負けた俺には、もう逃げる場所はなかった。
(了)