第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「カラーボール」三明ねねこ
カラーボールが落ちていた。マンション入口の植え込みに、ぽつんとひとつ。黄色のボールに見覚えがあった。
男が手にとってみると、黒マジックで「かずき」と書かれている。偶然の一致か、五歳になる息子と同じ名前だ。
息子のボールだろうか? いや、そんなはずはない。ここは自宅マンションから、かなり離れている。
「どうしたの?」
ひと足先にマンションに入っていた女性が振り返った。
「別に」
とっさにボールを上着のポケットにねじ込んだ。
「おかえりなさい」
妻が玄関先までやってきた。
男が上着をポンと渡して部屋に入ると、息子は相変わらずおもちゃに夢中になっている。
息子をしばらく眺めているうちに、ふとカラーボールのことを思い出した。
「おい、上着どこに置いた?」
「寝室に掛けておいたよ」
寝室に行って上着のポケットを探る。
ポケットに入れたはずのボールがない。どこかに落としてきたのだ。
いや待て、そもそもあれは知らない子のボールだ。落としても困らない。
探す必要はなかったと、男は半ば自分に呆れていた。
夕食後、男はなぜかあのボールが気になった。
息子の周りを見渡したあと、部屋の隅に置いてあるおもちゃ箱を覗いてみる。
「どうしたの? パパ」
不思議そうな顔をした息子が、傍にやって来た。
「黄色いボールがあっただろう?」
三段に重ねられたおもちゃ箱の中を、ひと箱ずつ探してみる。
あった。黄色のボールは、他のおもちゃに紛れるように入っていた。
手にとってみると、黒マジックで「かずき」と書かれている。
やはり、あのボールは他人のものだ。
「それ、ほしかったらパパにあげるよ」
思わず男の頬が緩んだ。
スマートフォンの画面には、リビングに立つ女性の姿が映し出されている。
二十代くらいの華やかな印象の女性だ。巻き毛のロングヘアーをかきあげると、ゆったりとソファに体をあずけた。
すらりとした長身には、体のラインがくっきりと現れるワインレッドのワンピースがよく似合う。ことのほかスタイルがよい彼女は、異性を魅了することに苦労はないだろう。
ふぅ、とため息をついた後、長い足を組んで雑誌をめくり始めた。
しばらくして、男が部屋に入ってくると、女性は迎い入れるようにして抱きついた。
熱い抱擁とキスの後、抱き合うようにしてソファに倒れていった。
突然、スマートフォンの着信音が鳴った。妻は発信者を確認すると電話に出た。
「ええ、うまく撮れています。ボールが転がることなく、定位置を捉えていてバッチリですよ」
妻は満足していた。まさかこんなに上手くいくとは思っていなかったのだ。
ボールを使って超小型カメラで盗撮する方法を教えてもらうか、探偵を雇って調べてもらうか、どちらがよいかひと月悩んだ。選択に間違いはなかったようだ。
ベッドサイドのテーブルに置かれたスマートフォンが小さく鳴った。待ち受け画面に若い女性と一緒の夫の姿が映し出されている。「また遊ぼうね!」とメッセージが添えられたその写真を、妻は凝視していた。持ち主である夫は、深い眠りについていて全く気が付いていない。
結婚を機に仕事を辞めて主婦になったのは、楽しい家庭をつくるためのはずだった。
社会とのつながりが薄れていくように感じても、家族と楽しいひとときがあればいいと思っていたのだ。
それが、自分の目の届かないところで、夫は自由奔放な交友関係を楽しんでいたのだ。
妻は冷静になって、この状況を考えた。そして一大決心をした。
どうせだから、不倫現場を自分の目で見て確かめたい。裏切り行為の一部始終を自分の目に焼き付けた上で、これから始まる出来事に挑みたいと。
(了)