第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「煙る楽園」小島空見子
「何んなの? このくさい臭いは?」
コインランドリーに足を踏み入れたとたん、嗅いだことのない臭いに戸惑う。
「え? 京子は全然臭わないよ?」
京子は無人の店舗内で丸椅子に腰かけ待っていた。わたしは京子に歩み寄り
「で、助けてくれって、どうしたのよ?」
と彼女を見下ろしながら尋ねた。
「乾燥機から洗濯物が出せないの。真紀ちゃん、あの中から京子の下着を取り出してよ」
げっ、そんなことでわたしを呼んだの?
深夜に助けを求められて飛んで来たのに、理由が寝言のような言い草で呆れかえる。わたしは怒りをこらえて京子を睨んだ。
「自分で入れたなら自分で出せるでしょう?」
「無理なの。中に何かいるの」
京子が指さす先を視線でたどる。ずらっと並ぶ乾燥機はおおかたが使用中で、丸いガラス扉の奥では、カラフルな布切れが躍るように回っていた。唯一、いちばん端にある乾燥機だけは、扉を閉じたままで停止している。
「さっき乾燥が終わって、京子が中の様子を覗いたら、二つの目がこっちを見ていたの」
「はっきりと目を見たの?」
「うん、見た。緑色っぽい目だった」
動物だろうか? どこかからイタチか猫が入った可能性もある。わたしは店の備品のモップを手にして、追い払おうとして身構えた。
「京子は扉を開けて。わたしが棒で突くから」
声を合図に京子が扉を開ける。すかさず奥の方を何度も棒で突いた。すると柔らかい物体が先端にガツンと当たった。正体不明の生き物は「アウチ」と変な鳴き声をあげた。
「ノーノー、ストップ、ストップ」
外国人? 乾燥機から聞こえてくる英語に二人で顔を見合わせる。すると、モコモコと沸く白い煙の中から、金色の体毛の白人男性が現れた。その顔には見覚えがあった。
「ど、ど、ドナルド・トランプぅ?」
第四十五代アメリカ合衆国大統領、あのトランプ氏にそっくりな顔立ちなのだ。
「アーユー、トランプ?」
京子がたどたどしい英語で果敢に質問する。ちょっと待った。アメリカ大統領が乾燥機から出て来るわけがないのだ。絶対に怪しい。いいえ、それよりもこの人はなぜ裸なの?
巨漢の男は大げさに手を広げ
「わたしはトランプだが、ここはどこだ?」とこちらを見て尋ねた。もちろん英語で。
「ジャパン! 日本よ、にっぽん」
京子は腰にバスタオルを巻いただけの大男に、少しも臆することなく笑顔で答えた。男は困惑の表情で眉をしかめた。聞けば、自宅でサウナに入っていたら、急に壁に大穴が開いて、覗いたら中から長い棒で突き殺されそうになったのだと言う。確かに額に深い傷を負っていて、血がタラリと流れ出ていた。
「トランプさん許して。それわたしです」
アメリカの大統領だった人の額を割ったら、わたしはどんな罪で捕まるのだろうか。
「猫かイタチを追い出すつもりでした。怪我をさせようなんて思っていなかったの」
わたしは怖くなって涙声になっていた。
「日本のお嬢さん泣かないで」
とトランプは英語でわたしに語りかけた。
「猫ならここにいる」
彼は軽くウインクしながら自分の頭髪を指さした。そして「良い仕事だ。君のミッションは成功だ」とわたしに向けて親指を立てた。
「トランプ大好き!」
京子は飛び上がって裸のトランプに抱きついた。わたしもほっとして指で涙を拭った。京子はポケットから自分の財布を取り出して
「これ、大切な最後の一枚なんだけれど」
と可愛いキティちゃんの絆創膏をトランプの額に貼ってあげた。それは京子が祖母から貰った思い出の品で、もうどこにも売っていないと、いつも大切に持ち歩いていた代物だ。
「日本の親切なお嬢さん方に感謝する」
トランプはどこから取り出したのか、わたしたちにMAGAキャップを被せてくれた。そして金色の体毛をフサフサとそよがせながら楽しそうに身体をくねらせ躍り始めた。わたし達も嬉しくなって笑いながら跳びはねた。コインランドリーの火災報知器が頭上でけたたましく鳴っている。その音を聞くと彼は「警報だ。帰る」と突然の別れを告げた。そしてエアホースワンに乗り込むときのように手を振り、堂々と乾燥機の中に消えていった。
トランプが去ったあとをいつまでも眺めていたら、店に消防士と警官がなだれ込んで来て、わたしは彼らに捕まってしまった。
そんなわたし達は元大統領の誘拐ではなく、薬物使用で捕まったのだ。あの夜、誰かが乾燥機でマリファナを乾かしていて、わたしらはそれのボヤの煙を吸ったらしい。全てのことが幻だったわけだ。でも、あんなリアルな幻があるの? それも二人で同時に同じ夢。
あ、携帯電話が鳴っている。京子からだ。
「真紀ちゃん早くTVつけてトランプの額に」
(了)