第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「私のいる世界」広都悠里
幽霊より生きている人間の方が怖いよね、A定食をテーブルの上に置いたまま佐川優花はうっすら笑う。
「そうかもしれませんね」
私は同意して社員食堂で一番安いうどんの丼を覗き込んだ。薄いピンクのかまぼこが二きれと少量の葱、やわやわしたうどんが茶色のおつゆに沈んでいる。二百七十円でお昼ご飯が食べられるというのはありがたい、といつも思っていたことをまた思う。
「相変わらずしょぼいわね。そんなものばかり食べているから駄目なのよ」
「これが一番落ち着くんです。ほっとする味で、お財布にも優しいし」
優花は足を組み直して笑う。
「お財布の心配をするなんてばかみたい」
そんなふうだから、と言いかけて優花の瞳が揺れる。エビフライをフォークで刺そうとしていた手が止まった。
「中村課長、少し痩せたみたい」
中村課長を追うまなざしがが少し濡れて見えることに私は驚いてしまう。
「あなた、まだ中村課長に未練があるの?」
私は優花のカーディガンをはおった左腕を掴む。その手首には決して消えない傷があるはずだった。
「相手の目の前で自分の手首を切るなんてよくそんな恐ろしいことをしたわね」
「私は本気だってことをあの人に伝えたかったんだもの」
「そんなことをしたら逆効果じゃない」
「そうね。男の人って血に弱いんだってあの時よくわかったわ。だけどもういいの。ここまでやれば私のことを一生忘れられないだろうから」
ローズピンクの唇がにいっと上がるのを見てぞっとした。そんなにまでして中村課長を手に入れたかったなんて。そこまでの情熱を持てることに、呆れるのを通り越して感心してしまう。
「すごいわね」
「よく言うわ。あなただって憎しみでどろどろの真っ黒な心をもっているくせに。全部、知っているわよ。ずっと見ていたもの」
優花はA定食のエビフライを今度はきちんとフォークで突き刺し、鼻先で笑う。
「午前中いっぱいかけて必死で打ち込んだ文書を、昼休み中にあの女に全部消されたのよね、急ぎの文書だと念を押したのにって課長に怒られた挙句、こんなことなら別の人に頼めばよかった、なんてみんなの前で言われて。あと、あなたが作った資料をにっこり笑ってありがとう、後はやっておくからって奪われてあの女がみんなに配っていたこともあったわよね。他にもまだあるわ」
「もうやめて」
私は優花を遮った。
「もう全部、終わった事よ」
「ふん。まだ根に持っている癖に。私なんかとつるんでいるってことがその証拠よ」
食堂が混んできた。空席がどんどん埋まっていく。
「あ、ここ、空いてる」
女性社員が二人、私達をおしのけるようにぐいと椅子を引く。テーブルの上にどん、とサラダやパスタをのせたトレーがおかれ、優花のA定食と私のうどんは輪郭だけとなりぼやけて消えた。
私も優花も、はずむようなしっかりした温かな肉体に押しやられ、はじき出される。
目に見えるものが優先される世界でわたしたちは消えるしかなかった。
「残念よね。殺し損ねて自分が死んでしまうなんて」
優花のつぶやきが胸に染みた。
「あなただって、寂しさに負けてしまったんじゃない」
「しかも未練がましくまだこんなところにいるなんて、ばかみたいよね、私達」
かすかな気配となって漂い続けているのは私と優花だけではない。
目を凝らせば何人もの影が見える。
死ななければならなかったほど苦しい場所だったはずなのに、この場所から離れることができない。
体を手放すことによって俯瞰して見ることのできる目を手に入れ、あの女がいくら物を買っても満たされることのない病んだ心に支配されていることを知る。だからといって許すわけにはいかない。でも、許さないと百万回叫んだところで何も変わらない。私はもうその世界にはいないのだから。
不思議なのはあんなに憎んだ世界がくらくらするほど眩しく見えることだ。
その眩しい世界を自ら去ってしまった後悔で濁った心がどんどん重くなっていく。
これが未練というものか。思い知ったところでどうにもならない。ただぼんやりとかつて自分がいた世界を見つめることしか、もうできない。
(了)