第77回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「目ヂカラ」石黒みなみ
出勤前、鏡に向かう時間は真剣勝負だ。アイシャドウをつけ、ビューラーでまつ毛をしっかり上げる。その上にたっぷりとマスカラ。マスク生活が長くなってから、アイメイクにはますます力が入る。こんなに頑張っているのに、同僚の高橋君はいつもパソコンばかり見ている。たまにはこっち見てよ。
そばを通りかかったママが「何?」と立ち止まった。
「何って、何も言ってないよ」
「そう? なんか言ったような気がしたけど。あー、そのアイメイク。やりすぎじゃないの。カオリはもともと目が大きいんだから、なんか目のお化けみたいよ」
「自分の娘にそれはないでしょ。今はこういうのが流行りなの。目ヂカラっていうのよ」
「わかるけど、目ばっかりって変よ。マスクするからって、チークも口紅もなしで出勤なんて、いったい最近の子はどうなってるの」
「ママたちとは時代が違うのよ。マスクしっぱなしだもん。それにマスクに口紅とかファンデがつくの嫌だ」
「でも、もしマスクはずしたときによ、そんな半分すっぴんみたいな顔、変じゃない。突然ラブストーリーが始まるかもしれないのに、チャンスを逃すわよ」
「何、パパとは突然始まったの」
「うるさいわね。さっさと支度しなさい」
「はあい」
オフィスに入り、私はもうすでに来ている人たちに黙って頭を下げた。変異ウイルスが猛威を振るっていて、マスクをしていても危ないということらしく、できるだけ声は出さないことになったのだ。打ち合わせもパソコン上のチャットで行っている。もちろん昼食時はマスクをはずすが、この間はいっさい私語禁止、顔をそむけあって食べるのだ。ママは何にもわかってない。
小さくスマホが光ってラインが来た。向こうの席のアスカからだ。
「カオリ、今日も一段と目ヂカラすごいよね」
「そーお?」
返信しながら少し離れた高橋君のほうをちらっと見る。マスクをしててもカッコいい。ちょっとでもいいから気づいてくれないかな。そう思ったら高橋君がパソコンから目を離してちらりとこちらを見た。珍しいこともあるもんだ、案外突然何か始まったりして。まさかね。でも、高橋君、もっとこっち向いてよ。
びくっとしたように高橋君がこちらを向いた。え? ひょっとして、高橋君、私のこと、意識してた?
私はびっしりとマスカラを塗ったまつ毛をバサバサと動かし、高橋君に向かって瞬きしてから目だけで笑顔を作ってみた。
携帯が震えた。どうせ、アスカだ。私、今、忙しいのよね。高橋君とアイコンタクトしてるんだから。
あー、ママのいうこと聞いておくんだった。万一、マスクはずすようなことになっちゃったら。きゃー、いやだ。いや、まあ、別に服を脱ぐわけじゃないし。
高橋君がキーボードを打つ手を休めてこっちを見てくる。うわ、どうしよう。いや、ほんと、ママの言うようにチャンスかも。
前から素敵だって思ってたんです。
私はいっそう目を見開いて、高橋君を見つめた。高橋君は気のせいか、まるで驚いているように目を大きく開けて、こちらを見つめ返してくる。
またスマホが音をたてる。もう、アスカったらうるさい。適当にスタンプで返そうとして驚いた。アスカからいくつもラインがきている。
「カオリ、ヤバイよ」
「ヤバイヤバイヤバイ。頭おかしくなったんじゃない。どうしたの」
どうしたのって、こっちが聞きたい。顔を上げてアスカのほうを見た。すごい形相をしている。目だけであれだけの驚きはなかなか表せるもんじゃない。アスカの目ヂカラも相当なもんだ。後で言ってやらなくちゃ。そう思ってから気がついた。同じフロアの人たちがみんな私のほうを向いている。
アスカがマスクの上から人差し指をたてて、「しっ、黙って」というジェスチャーをした。次にスマホをこちらに向けて見せ、指差した。
何、スマホ見ろってこと? 私は目を落とした。
「カオリ、目でしゃべってるよ!」
私はもう一度周りを見た。全員が凍り付いたように私を見ている。そして怯えたように目を見開いて凍り付いている高橋君。
私の目ヂカラは強すぎて、閉じている口の代わりにとうとう目が声を出していたのだった。
(了)