第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「境界と効用」佐名木理央
異変に気づいたのは朝だ。家事の音がしなかったし、昼になっても母はドアの前に食事を運んで来なかった。体調が悪く、寝込んでいるだろうか。しばらく放っておいたが、丸一日部屋から出ないのはおかしい。オレは母の部屋に忍び足で向かった。部屋の前で耳を澄ましたが、依然として物音はしない。廊下の往復を何回か繰り返してから、オレは思い切って母の部屋のドアを開けて覗いた。掛布団の上下動が無い。直感的に不穏を感じ、部屋に入った。間近でその顔を見たのは何年ぶりだろう。母は眠ったように死んでいた。脳梗塞か心筋梗塞だろうか。念のため手首の脈を取ってみたが、結果は変わらなかった。困ったことになった。これからオレはどうすれば良いのか。もう誰も食事を運んでくれない。誰も掃除や洗濯をしてくれない。それに、そもそも、母の死体をどうすれば良いだろうか。救急車を呼ぶか。いや、すでに死んでいるから警察か。どちらにしても厄介なことになるだろう。状況を話すことすら億劫だ。40年以上ずっと家にいて、母とすらほとんど喋っていないし、外出も深夜のコンビニだけなのだ。そうだ、葬式もしなければいけないか。父の葬式以来だ。出来の良いいとこ達は、オレを見てどんな顔をするだろう。その日は結論が出ず、カップラーメンと冷凍のチャーハンを食べて寝た。
次の日、ネットサーフィンで徘徊老人が年に一万人ほどいることを知った。そうだ、母も徘徊して行方不明になったことにしよう。折を見て警察に相談すれば良い。問題は死体の置き場所だった。あのまま放置しておくわけにもいかない。結局、玄関の三和土の下に隠すことにした。古い家なので三和土は高く、小柄な母の死体を置けるくらいの空間はある。三和土の奥は死角だし、まさか玄関に死体を隠すとは誰も思わないだろう。我ながらナイスアイデアだ。決断してからのオレの行動は早い。まずは母の死体をゴミ袋で包み、ガムテープでグルグルに巻いた。それから三和土の下を覗くと、奥の板と床との間に隙間が見えた。手を突っこむと、板の下側を向こう側へ押すことができた。とんだ欠陥住宅だったようだが、好都合だ。オレは死体を三和土の板の奥に押し込んだ。ドサっという音で、死体は家の下に隠れた。オレは板を接着剤で止め直し、仕事を終えた。家が取り壊されない限り、死体が見つかることは無いだろう。
警察への相談の前に、母の徘徊癖を近所の人達に印象づける必要があった。とりあえず夜中に、玄関のドアを開け閉めたり、照明を付けたりした。散歩にも出てみた。徘徊老人を探し回るフリだ。外の空気は気持ちが良かった。ついでにコンビニにも行った。弁当とカップ麺、ジュース。帰り道で警察官とすれ違ったときはドキリとしたが、もちろん声を掛けられることはなかった。その日から、夜中の散歩が習慣化した。
ゴミが溜まってきた。朝に外に出るのは億劫だったが、ゴミ出しごときでトラブルになるのは困る。結局、人のいない早朝にゴミを出しに行くことにした。朝の空気は格別だった。ゴミを置いて帰ろうとしたとき、後ろから声を掛けられた。
「おはようございます」
「あ、ああ、お、おはようございます」
目を合わせずに立ち去ろうとしたが、声の主はさらに続ける。
「あれ、もしかしてケンちゃん?」
「あ、え、ええ、そうです」
「あら、久しぶりだわー。中学生以来よね」
近所の話好きのおばさんだった。スウェット姿のオレを上から下まで舐めるように見る。
「たしか、県外の全寮生の高校に行ったのよね。それからは大学も就職も東京って聞いたけど」
「え、ええ、そうです」
母は近所に嘘をついていたのだ。すでにバレているのだろうが、オレは上塗りすることにした。
「今は、フリーランスというか、個人的に仕事を請け負っておりまして。母の体調が優れないので実家に帰って来ているんです。僕の仕事は場所を選ばないので」
「あら、そうなの。社長みたいなものよね。すごいわー。そういえばお母さん、最近見掛けないわね。具合、悪いの?」
「ええ、そうなんですよ。少し、こう、ボケ、あー、認知症がひどくなりましてね」
「え、そうなの。この前会ったときは元気だったのに」
「最近、徘徊癖もありまして。で、僕がこうして実家に帰ってきているわけです。あ、ごめんなさい、心配なのでそろそろ戻らないと」
母の認知症と徘徊癖は、退屈な主婦たちの話の種になるだろう。介護のためなら、オレが家にいる時間が長くても怪しまれない。仕事はフリーランスということにしたし。なんなら、本当に仕事も探してみようか。そうだ、オレはやればできる子だった、もっといろいろやってみよう、と玄関でサンダルを脱ぎながら思った。
(了)