第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「玄関でのひとこと」加藤諒子
「悠晴、朝だよ! 起きてるー?」
「うんー、起きてるー」
朝起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べ、制服を着る。薄暗い玄関でローファーを履きながら、はぁ、と思わずため息をついた。
今日もいつもと同じ一日が始まる。
玄関のドアを開けると、門の外で待っている昂輝が見えた。
「おはよー、お待たせ」
片手をあげつつ、門を閉める。その振動で、門に乗っていた桜の花びらが舞った。
桜が満開を迎えたのは二週間ほど前のことだ。桜並木の道を、真新しい紺のブレザーで歩く新入生たちを後目に、悠晴は、すでに一年間着てよれた自分の制服のしわをなでた。
隣を歩く昂輝は、みんなと違い、キャメル色のブレザーを着ている。今年の春に転校してきたからだ。ノリが合うのと、家が近所なこともあり、最近は毎朝一緒に登校している。
「そういえば、悠晴の家は朝誰もいないの?」
ふと思いついたように昂輝が言った。
「え? 親と妹がいるけど……。なんで?」
「そうなんだ。いや……、ほら、いつも何も言わずに家を出てくるから……」
その歯切れの悪さに、悠晴は昂輝のほうを見て聞き返す。
「何も言わずにって?」
昂輝は前を見たまま言った。
「なんか、『いってきます』とかさ」
「あぁ……、確かに言ってないかも」
気にしていなかった。いつからだろう? 地面を見ながら、遠い記憶を呼び覚ます。小学生のときは言っていた気がする。中学はどうだったっけ。高校に入ってからは一度も言ってないかも。
「でもさ、『いってきます』って必要か?」
ちらりと昂輝を見ると、今度は目が合う。
「……俺もそう思ってたんだけど。というか、少し前まで、全く気にしてなかったんだけど」
「うん、俺も」
「でもさ、やっぱり必要だなと思って」
「なんで?」
昂輝は大きく深呼吸をしてから言った。
「前の学校の友達がさ。朝、母親と大喧嘩して家を出てきて、学校でもずっと母親の愚痴を言っててさ」
「思春期あるあるだな」
「そのあと、母親が亡くなっちゃったんだ」
「えっ」
悠晴は思わず目を見開いて昂輝のほうを見た。何気ない世間話だと思っていたのに、突然深刻な話になって戸惑う。
「それからそいつ、すごく後悔しててさ。俺、それを近くで見てて。それから、出かける前に喧嘩するのだけはやめようって思った」
「……なるほどね」
返す言葉が見つからなかった。そういうことが、ドラマの中だけじゃなくて、実際起こりうるのか。そう思うとすごく怖かった。
「だから、『いってきます』って言うようにしたんだよね。たとえ朝、喧嘩しちゃってもさ、出かける前に『いってきます』って言うことで切り替えるっていうか」
悠晴は、確かに、と心の中で相槌を打つ。
「あとさ、なんか……朝、玄関でその一言を言うだけで、なんか違う気がするんだよね。よし、行くぞ! って気分になるっていうか」
「へえ、そういうもん?」
「そうそう。まあ、気が向いたら言ってみて」
「悠晴、朝だよ! 起きてる?」
「起きてるよ」
朝起きて、顔を洗って、朝ご飯を食べて、制服を着て、靴を履き、ため息をつく。今日もいつもと同じ一日が始まるんだろう。
そう思いながらドアを開けて、昂輝の顔を見た瞬間、昨日の話を思い出した。
ふと、後ろを振り返って言ってみる。
「いってきます」
廊下を通りかかった母親が、驚いた顔で、でもうれしそうに言った。
「……いってらっしゃい」
少しこそばゆかった。いつも薄暗かった玄関が明るい。外の空気が、家の中に入って混ざり合う。ドアを開けているとこんなに違って見えるのか。俺は、こっちのほうが好きだ。思わず頬が緩んで、慌てて前を向く。
外に出る一歩が、いつもより軽い気がした。なんか、ワクワクする。小さいころは、出かけるとき、毎日こんな気持ちだったような。今なら、昂輝の言っていたこともわかる。
顔をあげると、昂輝がニヤニヤしているのが目に入った。
「なんだよ!」
昂輝に駆け寄ってどついたところで、彼が、糊のついたシャツに、紺のブレザーを着ていることに気がつく。
「お、制服届いたの? いいじゃん」
「昨日ね。やっと同じ高校って感じ」
昨日までとなにか違う日が始まる気がした。
(了)