第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「入口」村山亮
「よお」と玄関は言った。
玄関が話しかけてくるのはずいぶん久しぶりのことだった。それは田舎にある僕の実家の玄関で、ここにやって来たのは五年ぶりのことだった。そういえば五年前ここを出る時にも、玄関は何かを言いたそうにしていた。でもその時は何も言わなかった。ただ黙って見送っていただけだ。
あたりは夕暮れのオレンジ色の光に包まれていた。西にある杉の木が、長い影を地面に落としていた。春の風が一筋吹いた。冷たい予感を含んだ風だった。僕はそれを吸い込み、吐き出した。そして自分がかつていた場所からずいぶん離れてしまったことを悟った。
「久しぶりじゃないか」と彼は言っていた。
「どうも」と僕は言った。「なんか知らんけど帰ってきた」
「ずっといるわけじゃないんだろ?」
「ずっといるわけじゃない。せいぜい三日くらいだ」
「何しに帰ってきたんだ?」
「分からない」と正直に僕は言った。「でもそろそろ帰り時かなって思ったんだ。ふとね」
彼が最初に話しかけてきたのは小学校三年生の時だった。あの時もこんな風な夕暮れで、僕は一人ぼっちだった。外でボールの壁当て(野球の練習だ)をしたあとに、小走りで家に戻った。全然急いだり、焦ったりする必要はなかったにもかかわらず、その時の僕は怯えていた。夢中で練習していたあとでふと気付くと、すでに空は暗くなり始めていた。木の上でカラスが鳴いている。その時風が吹いたのだが、その風が明らかに何か不吉なものを含んでいたのだ。そこにあったのは死だった。正確には死の予感のようなものだ。カラスの声がそれに確証を与えてくれていた。カー、カー、とカラスは鳴いた。僕は身震いし、急いで家に帰らなくては、と思った。
と、玄関の戸を――それは横開きのものだった――を開けようとした時に、僕は何かにつまずいて、両手を埋め込まれた縦長の曇りガラスに突いてしまった。あっと思った時にはもう遅かった。割れたガラスがちょうど左手の手首を切り裂いていた。ぱっくりと割れた傷跡から赤い血が流れ落ちてきた。いや、溢れ出してきた。それはドクドクととめどなくやって来て、そして地面に落ちていった。僕はただそれを見ていた。あまりにも鮮やかだったので、始めは痛みも忘れていたくらいだ。しかし次第にその光景を見ていることが怖くなった。この血は何かを象徴している、とその時の僕は思った。何か、すごく怖いものを。カラスがまた鳴いた。カー、カー、と。
その時玄関が言った。「なあ、おい。坊主。そんなに怖がるなよ」
「え?」と僕は言った。「今何(なん)て言ったの?」
「そんなに怖がるな、って言ったのさ」と玄関は言った。「なにしろただの血なのだから」
「ただの血って」と僕は泣きそうになりながら言った。「でもこんなに出ているんだよ」
「いいか坊主」と彼は言った。「血が出るってことは、君はまだ生きてるってことさ。そのことに感謝しなきゃ」
「でも痛いよ」
「痛みもまた生きていることの証拠さ。大丈夫。もうすぐお母さんが帰ってくる」
「それまでどうすればいいの?」と僕は言った。血はまだ噴き出し続けている。
「俺としゃべっていればよろしい」
「あんた誰なの?」
「玄関さ」と玄関は言った。「いつも君らをお見送りしている。今日も。これからも。ずっと」
「ふうん」と僕は言う。「それって楽しい?」
「ときにはね」と彼は言った。「でもときには楽しくない」
「それってどんなとき?」
「たとえば行くべきでない所に人々を送り出すとき」
「行くべきでない所ってどこ?」と僕は訊く。
「それは、行くべきでない所さ。その都度変わる」
僕はそれについて考えた。でも正直よく分からなかった。「じゃあ本当はさ、そういうときは声をかけてくれたらいいんだよね。そこは間違った場所だって」
「いいかい?」と彼は言った。「ときに人は、間違ったことをしなくちゃならないのさ。それがどのように(どのようにに傍点)間違っているのかを身を持って知るためにね」
「そんなものかな」
「そんなものさ」
「僕は間違った場所で、間違ったことをしていたのだろうか?」と三十歳になった今の僕は言った。
「あんた自身はどう思うんだ?」と彼は言った。
「僕は……」と僕は言った。その時透明な風が吹いた。
(了)