第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「玄関の花」楠守さなぎ
買い物からの帰りに、咲子はいつもと違う道を選んだ。一人暮らしの代わり映えしない日々に変化をつけたくて、咲子は時々、こうして見知らぬ家の前を通る。それぞれの家の玄関を、住人が工夫を凝らして育てている花が彩っている。花が好きな咲子にとっては、それを眺めるだけで心が華やいだ。
その日は屋敷と呼べそうな大きな家の門の内側に、変わった花を認めて足を止めた。細い花びらが花火のように放射状に広がる花は、明るいピンク色だ。もっとよく見てみたくて、門に顔を近づけると
「どうかされましたか?」
急に声をかけられて、咲子は飛び上がった。家の方から、若い女が歩み寄ってくる。透き通るような白い肌に純白のワンピースを着ているものだから、まるで幽霊のように見える。
「ごめんなさいね、あまりに綺麗な花だから、つい見入ってしまって。もっと近くで見せてもらえないかしら」
咲子の言葉に、女は花の植わった鉢を持って門の前まで来てくれた。近づくと甘い香りがする。ぷっくりと肉厚な葉は、触れてみたくなるような可愛らしさだ。
無意識のうちに手を伸ばしていた咲子から離すように、女はさっと植木鉢を引いた。その動きに我に返った咲子は、改めて女に向き直った。
「素敵な花ね。もしよかったら、その葉を分けてもらえないかしら。多肉植物でしょ? 土に挿したら根がつくと思うのよね。私も家で花を育てているから」
咲子の無遠慮なお願いに、女はしばらくぼんやりとしていたが、やがてゆっくりとした動きで頷いた。
「いいですけど……一つだけ約束してほしいことがあります。この花を、家の玄関より内側に入れないでください」
女の言葉に少し首をひねったものの、咲子はすぐに得心した。
「外に出してよく日光に当てるといいのね。大丈夫、ちゃんと出しておくわ」
こうして咲子は一房の葉を持ち帰った。空いていた植木鉢に土を詰めて、早速貰った葉を挿してみる。期待に胸を膨らませながら、水を与えた。
翌日咲子が玄関に出てみると、葉は倍くらいの大きさになっていた。そして更にその翌日には、花まで咲かせていた。成長の早さに咲子が目を丸くしていると、通りの向こうから見覚えのある人影が現れた。じっと見つめていると、その人物が片手を上げる。懐かしいその仕草に、咲子は思わず手で口を覆った。
それは、数年前に急死した夫の太郎だった。あと二年で定年という頃、いつものように会社に行った太郎は、通勤途中に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。もう二度と、夫は帰ってこないと思っていたのに……。
太郎を迎え入れようと、咲子は家の門を開けた。目の前に立った太郎は、あの日と同じ背広を着て、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
「帰ってきて……やだ、そんなところに突っ立ってないで、早く家に入って」
先に立って玄関の扉を開いた咲子は、家の中に入る太郎が忽然と姿を消すのを見た。
「嘘……なんで……」
家中をくまなく探し、家の周囲も探したけれど、その日太郎が見つかることはなかった。
翌日、咲子が玄関に出て行くと再び同じことが起こった。太郎が帰ってきて、家に入った途端に消えるのだ。それを何日か繰り返し、咲子は一つの可能性に思い至った。太郎が現れるようになったのは、あのピンクの花が咲いてからだ。あの花が原因なのかもしれない。そう思うと、花を貰ったときの女の言葉が引っかかる。
『玄関より内側に入れないで』
あの言葉には、何か別の意味があるような気がしてならない。あれから更に花を五つつけて、それ以上の成長を止めた植物の植木鉢を持って、咲子は家の中に入った。日光の当たる場所を意識して、玄関入ってすぐの出窓に置く。浮かび上がるように、扉の前に太郎が現れた。
「おかえり。さぁ、家の中へ……」
太郎は促されるままに廊下を歩いていたが、居間に入る直前にかき消えてしまった。咲子はすぐさま、植木鉢を居間の机の上に移動させた。すると今度は、居間に太郎が現れた。背広を脱いで腰を下ろした太郎を見て、咲子は幸せそうに笑った。
数週間後、咲子の家の電話が鳴り響いたが、その受話器を取る者はいない。太陽光を失った植物は、栄養を求めて根を伸ばし、植木鉢を乗り越えた。甘い香りに酔ったように、ほうける咲子の元へ。豊富な栄養源を見つけた植物は、ますます色鮮やかな花を咲かせていた。
(了)