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第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「わたしの帰る場所は」吉田猫

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作文・エッセイ
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第76回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「わたしの帰る場所は」吉田猫

 お父ちゃんが死んだあと、その男がうちに来たのは多分わたしが小学校三年生のころやったと思います。

 お母ちゃんは嬉しそうな顔で「この人が新しいお父ちゃんやで」と言うてました。その男はどう見てもお母ちゃんよりずっと年下みたいやし、わたしはお父ちゃんのことを忘れるのが嫌でたまらんかったからお母ちゃんが、ほれ、お父ちゃんって呼んでみって何回言うても、うまいこと口を開けませんでした。その男は「まあええよ、最初からそんな言えんわ」とわたしの頭を撫でてくれました。

 でも優しかったその男もお酒が入ると子供のわたしの前でも平気でお母ちゃんに「なんや、お前!」と大声でいつも怒鳴るようになりました。突き飛ばされて蹴られたお母ちゃんを見てわたしも泣きました。そのうちわたしも大声で怒られるようになって、出ていけ! とわたしが怒鳴られているときの小さくなったお母ちゃんの背中が悲しそうやったのを忘れることができません。

 あるときタバコの買い置きが切れてると言うて怒り始めたその男は手が付けられんようになって、ここに立ってろと言うてわたしの腕を引っ張ると玄関に放り投げるように突き飛ばしました。当時はまだお父ちゃんが残した小さな一軒家に住んでましたから家には立派な玄関がありました。冬の寒い夜やったから玄関は凍えるように冷とうて、しばらくすると体がカチカチと震え始めて、辛らくて涙があふれてきたけど音を立てるのが怖くて声を殺して泣きました。お母ちゃんのすすり泣きも聞こえてました。それ以来わたしの逃げ出す場所はいつも冷たい玄関でした。そこで膝を抱えて毎日毎日過ごしました。

 それから一年後くらいやと思います、お母ちゃんがその男を殺したんは。その男が酔っ払って眠ったところをタオルで首を絞めたと聞いてます。お母ちゃんは耐えきれんかったんです。だからお母ちゃんはなんも悪くないと今でもそう思うてます。

 わたしはそれからいくつかの親戚の家で暮らし高校は卒業するまで施設から通いました。

 食品工場に就職し狭い寮の一人部屋で初めて解放された気分になりました。わたしは一生懸命働きました。他に行くところも無いし頼る人もおらんし、なんも考えんと仕事をすることが一番ええんやと思うてたんです。

 初めて昭雄さんにあったのは工場で働き始めて四年目の五月でした。卸問屋の営業マンやった昭雄さんが直接工場に商品の確認にこられたときでした。そのころにはわたしは既に中堅の作業員やったから、担当してる工程の説明をすることになりました。何回かの打ち合わせが終わって帰る前に昭雄さんはこっそりとわたしに連絡先が書いたメモを渡して、小さな声で「よかったら電話下さい」と言うて食事に誘ってくれました。わたしはうれしかったけどお母ちゃんのことがあるから自分から連絡する勇気がありませんでした。ところが昭雄さんはどこで聞いたのか休みの日にわたしの寮まで来てくれました。強引ですんません、と謝りながらもわたしを街に連れ出してくれたんです。

 わたしはお母ちゃんのことを最初に言わなあかんと思うて昭雄さんに正直に話しました。あんな事件のあった家の娘と付き合いたい男なんかいるはずないと思うてましたから。昭雄さんもそれを聞いて少しショックを受けたようでした。口数が少のうなって、ああやっぱりもう終わりなんやと思うてました。でも翌日に電話をくれた昭雄さんは「あなたのせいやない、あなたを守りたいんや、付き合うて下さい」と優しく言うてくれました。

 半年くらいたって昭雄さんのご両親に会いに行くことになりました。ご両親は事件のことを聞かされて当然反対してはったけど昭雄さんが、この人しかいないんや言うて説得しようとしてくれてたんです。

 でもわたしは初めて行った昭雄さんの実家の玄関で倒れてしまいました。その玄関が昔住んどった家の玄関とそっくりであの頃の記憶が蘇ってきて体が寒うなったかと思うとカチカチ震えを感じて、ご両親に会う緊張もあってか、なんや訳わからんなって倒れてしもうたんです。気が付いたときは布団で寝てました。「昔の玄関でのこと思い出しました」と小声で謝るわたしに心配そうな昭雄さんは「もうええ、もうええ」と言うて涙ぐんで手を握ってくれました。その話を聞いたお義父さんも「可哀そうな娘さんや、大切にせなあかんで」と言うてくれはったそうです。

 わたしは今幸せに暮らしてます。狭いマンションやから玄関は小さいけど寒くはないし可愛い飾り付けもしています。わたしも昭雄さんもお母ちゃんをずっと待ってます。わたしは思うんです。悲しいことはあったけど、それはお母ちゃんのせいやないって。そやから合わせる顔が無いなんて言うたらあかんよ。だって、うちはお母ちゃんの娘なんやから。

(了)