第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「座右の書」出崎哲弥
助手席の貴之に、強い睡眠薬入りのコーヒーを飲ませて眠らせた。そのまま、ひと気のない夜の林間道路を奥へ奥へと進んだ。ヘッドライトだけを頼りに。
車を停めて、貴之を引っ張り出したところで、ひと息に首を締めた。予想通り貴之は失禁した。車中で行わなくて正解だった……。
澄香は、足元の死体に視線を落とす。
――もたもたしてはならない。
トランクから、スコップを取り出した。赤土の地面に、穴を掘りはじめた。貴之の身体のサイズに合わせて、死体のすぐ側に。
自分のどこからこんなに力が湧いてくるのか、と澄香は驚いていた。一メートル近い深さまで、休むことなく掘り進むことができた。気づくと汗だくになっていた。
死体を両手で穴へ転げ落とした。足を使うのは、さすがにあまりにも冷酷に思えた。穴の底でうつ伏せにするツもりだったが、思い通りにいかなかった。貴之の顔は、こちらを向いている。堪らずに目を背けた。
土をかぶせる。どういうわけだか、結婚前の楽しかった思い出、新婚当初優しかった貴之の姿ばかりが、浮かんでくる。罪悪感が押し寄せてきた。澄香は、ぶるっと頭を振った。ブラウスとスリップを一緒に捲り上げた。満月に自分の腹を向ける。白い腹に暗く沈む重なり合った大小のアザ。まるで月の模様だった。顔や腕、表に出た箇所を貴之は、一切殴らなかった。その冷静さが、かえって恐ろしかった。憎かった。
――こうするしかなかったのよ。
もはや躊躇なく、澄香は、土を放り込む。次々と……。
「貴女を幸せにしたい」
水野聰太の声、一途な表情が、脳裏を過ぎる。身体の奥が熱くなるのを澄香は感じた。
――彼が私に勇気をくれた。
水野の胸に飛び込もう。澄香は、もう心に決めていた。
――これが済んだら……。
空を見上げる。月に浮かび上がるのは、スコップを持つ自分のシルエット。澄香には、そう見えた。
*
澄香は読み終えた文庫本《月下氷人》を閉じた。小さくため息をついた。
(陳腐だわ。いくら夫のDVが酷いからって殺して埋めるなんて……。あまりにも短絡的すぎる。何の解決にもなりはしないのに)
『主人公の名前が、あなたと同じ〈澄香〉なのよ。夫の名前も〈貴之〉で弘之さんと一字違いだし……すごい偶然だと思わない?』
そう教えてくれた友人・朋実をちょっと恨んだ。もっとも朋実にすれば単に偶然が面白かっただけなのかもしれない。『澄香も読んでみたら』と付け加えた口調は軽かった。心から薦める様子ではなかった。
澄香自身の夫婦関係までが主人公と重なっている――。もしも朋実がそれを知ったなら『読んでみたら』とは言えなかっただろう。
夫の弘之とは結婚七年になる。共働きで子どもはいない。今となっては、できなくてよかったと澄香は思う。もし子どもがいたら四六時中言葉で威圧していたに違いない。妻に対するのと同じように。
手を上げられたことはない。「そんな最低な真似はしない」と弘之は思っているはずだった。自分が妻の心にどれほどアザを重ねているか。分かっていない。分かろうともしていない。
エスカレートするモラハラに最近澄香は殺意さえ覚えることがある。いっそこの本の〈澄香〉のように踏み切れたらどんなに楽か……。気づくと澄香は《月下氷人》を再び読んでいた。さらに三たび、四たびと……。
《月下氷人》にカバーを掛けて澄香は常に手元に置くようになった。抑えていた弘之への殺意が湧き上がってくると殺害場面を読む。それだけで心は鎮まる。ひとまず――。
『何べん言や分かるんだよ、洗面所のタオルは毎日替える! 根っから不潔なお前は気にならないんだろうけどな……』
今朝、家を出るまでしつこく続いた弘之の暴言が耳に残っていた。会社に着いてもまだ気持ちがささくれている。
「澄香さん、どうしたの? 険しい顔して」
書類でポンと肩を叩かれた。同僚の田中伸一だった。同期入社の田中は普段から澄香を気にかけてくれている。優しい笑顔に、つい澄香は涙を滲ませた。
「ねえ大丈夫かい。君が元気ないと、僕まで調子出ないよ」
田中が澄香の顔を覗きこむ。目を見て、
「この前言ったこと、ウソじゃないよ」
と、ささやいた。
『ずっと、君が好きだった』
飾り気のない田中の告白が蘇る。
田中の背中を目で見送る。澄香は慌ててバッグから《月下氷人》を取り出した。
(了)