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第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ボヤ」市田垣れい

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作文・エッセイ
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第75回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ボヤ」市田垣れい

 夜中に消防車のサイレンが聞こえた。マンションのベランダに出て下を覗くと、駅に向かう道の一角から煙があがっているのが見えた。火事はすぐ消え、ボヤで済んだようだった。

 ボヤを出した美容院の跡地に、しばらくしてラーメン屋ができた。ラーメンと書いた赤いのぼりが立ったが、開店はまだのようだ。

 通勤前にラーメン屋の前を通ると、店の横に黄色い派手な外車が停まり、いかつい男が運転席で何かを眺めていた。漫画本でも携帯電話でもなく、分厚い単行本だった。

 仕事帰りに通るとラーメンだしの匂いが通りまで漂っていた。匂いにつられてガラス戸から店を覗くと、厨房が見えた。調理台の前にいたのは外車の男だ。盛り上がった筋肉で、Tシャツがはち切れそうだ。男は酒屋のような紺色の前掛けをして、何かを味見していた。

 離婚して実家に出戻った私は、拒食症は回復したものの、肉類が全く食べられなくなっていた。匂うだけで気分が悪くなり、焼き肉屋やラーメン屋の前は息を止めて通るほど嗅覚が敏感になっていた。ところがあのラーメン屋の匂いは私の空腹感を呼び覚ました。ダシは何を使っているのだろう。もう何年も食べていないラーメンを食べてみたいと思った。

 ラーメン屋がオープンしたようだ。のぼりの横にポスターが貼ってある。

『ラーメンかがわ』とあり、あのいかつい男の顔がイラストで描かれていた。

 帰り道にラーメン屋の前を通ると、通りまで行列ができていた。『ラーメンかがわ』は人気店になりそうだ。私は列に並ぶ気にならず、あきらめて帰宅した。

 休日に散歩をしていた私は、ステーキハウスの駐車場に黄色い外車が停まっているのを見つけた。ラーメン屋の男の車だと思った。運転席のダッシュボードに一冊の本が乗せてある。古い本なのか、紙がよれてアコーディオンのように膨らんでいる。古書好きな私は、本の題名が知りたくなって車に近づいた。フロントガラスが光ってよく見えない。車を覗き込むと、表紙が下向きで題名が見えない。体をかがめて背表紙を読もうとした時、店を出た人が駐車場に入ってきた。人目が気になり、本の題名を確かめることができないまま私は駐車場を出た。

帰宅し、カップうどんを食べていると、母が話しかけてきた。

「新しく出来たラーメン屋に行けばいいのに」

 認知症の母は私の肉嫌いをまた忘れている。

「あそこ、ボヤをだした美容院の息子さんの店だって。離婚して戻ってきたらしいよ」

 男も母が心配で戻ってきたのだろうか。私は出戻り男に親近感を覚えた。

 残業した帰り、空腹だった私はラーメン屋の前で足を止めた。幸い誰も並んでいない。

 狭い通路を通ると店の入り口がある。私は引き戸をそろそろと開けた。

 カウンターの中に男が立っていた。私に気づいて顔を上げた男は、驚いた様子で、手に持っていた本を慌てて閉じた。

「い、いらっしゃい」

「まだ大丈夫ですか」

「はい、お客さんでラストにします」

 男は鼻の下を手ぬぐいでこすった。目が赤くなっている。

 男から目をそらしてメニューを探すが見つからない。男が聞いた。

「メニューはありません。並盛でいいですか」

「はい。チャーシュー抜きでお願いします」

「卵は大丈夫ですか」

「はい」

 男は厨房に移動する時、閉じた本を後ろの棚に置いた。本の背表紙が見えた。

『人間失格』だった。

 湯気をたてたどんぶりが置かれた。

「お待たせしました。チャーシューの代わりに卵を二切れ入れました」

「ありがとう。煮卵、好きです」

 思った通り、澄んだ黄金色のスープだった。

 レンゲでひと口すする。スープは無事、喉を通った。すきっ腹にスープがしみわたる。

「おいしい」

 顔を上げたら男と目が合った。男は本を手に持って、ページを繰ろうとしていた。

「本が好きなんですね」

 男は天井を指さした。

「焼けた二階からオヤジの本がたくさん出てきてね。水浸しになったけど読めます」

 膨らんだ本をめくって見せた男の目は、赤く充血している。私は思わず男に尋ねた。

「その本、泣けますか」

「あっ、俺、花粉症がひどくて」

 男は目をしばたかせた。

(了)