阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「布団タワー、揺れる」稲尾れい
この四月に杏美が引っ越してきたのは、部屋がひとつしかないアパートだった。
寝る前には、部屋の真ん中に置いていた座卓を畳んで台所の隅に片付け、そこに家族四人の布団を敷く。ベランダ側を枕に、右からお父さん、杏美、お姉ちゃん、お母さんの分。タンスもダイニングセットも杏美とお姉ちゃんの学習机もお母さんの鏡台も全部倉庫に預けていて、ここにはほとんど家具がない。それでも布団を敷けば、部屋はぎゅうぎゅうだ。
「これはカリズマイなんだよ。新しい家の工事が終わるまでのしんぼうだからな」引っ越した日の夜、隣の布団に横たわったお父さんは申し訳なさそうに言った。けれど杏美は、この部屋にみんなで並んで寝ていると、どこかを旅しているようでワクワクする。もうしばらく工事が終わらなくても良いな、と思う。
「もしも重力を自由にコントロール出来たら、天井や壁が床みたいに使えて、このアパートのせまくるしさも少しはましになるのにな。そうしたら私、天井にひとりで寝てみたい」
ため息混じりにそんなことを言ったのは、お姉ちゃんだ。来年には中学生になるお姉ちゃんは、お母さんに言わせると「そろそろ、ひとりになりたい年頃」であるらしい。新しい家では杏美と一緒の部屋ではなく、自分だけの部屋をもらうんだ、と今から楽しみにしている様子だ。杏美にはそれが何だか淋しくてつまらない。ケチのひとつもつけたくなる。
「天井で寝るなんてコウモリみたい。変なの」
「そうかな、忍者みたいでカッコイイじゃない」とお姉ちゃんは笑った。杏美はますます淋しくなった。
その日、杏美が小学校から帰ると、アパートの部屋には鍵が掛かっていた。こんな時のためにと渡されていた合鍵をランドセルのチャック付きポケットから取り出し、扉を開く。
夕方の黄色い光に照らされた部屋の隅に、布団タワーが立っていた。床にすのこを置いて、その上に四人分のマットレス、敷き布団、掛け布団、枕がきっちりと積んである。お母さんがベランダに順番に干した後、邪魔にならないよう、寝る時までこうしておくのだ。
布団タワーの側には、お母さんが踏み台にしたらしい丸椅子が置きっ放しになっていた。引っ越してきた日、お姉ちゃんがこの丸椅子の上でジャンプして、「ほら天井にさわれた」と白い粉のうっすら付いた指先を見せてくれたのをふと思い出す。「危ないし、下のお部屋の人に迷惑だからやめなさい」と、あの時は二人してお母さんに怒られてしまったのだ。
この部屋の天井はちょっと低い。布団タワーのてっぺんからならば、簡単に手が届きそうに見える。杏美は丸椅子の上に立つと、右脚を上げて敷き布団と掛け布団の層の間につま先を差し込んだ。てっぺんの枕に両手を掛け、力を込めてえいやっと体を引き上げる。布団タワーは杏美を乗せたままぐらりと揺れ、やがて治まった。
枕を脇にのけ、掛け布団の上に仰向けに横たわると、お日様の温もりを背中一面にじわりと感じた。目の前に天井がある。壁と似たような白色で、けれど壁紙に付いている縦縞のような線模様はない。ざらざらした無地だ。
横たわったままお尻を移動させ、両足の裏を壁にペタリと付けた。そのまま交互に動かせば、壁の上で足踏みをするような動作になる。いくら踏みしめても力が入らない。自転車のペダルを逆回転させている時みたいだ。
今度は、天井に向かって壁の上を一歩ずつ進んでみる。上半身は布団の上に横たわったまま、腰から下だけが次第に天井に近付いてゆく。途中でシャツが落ちておへそが丸見えになったけれど、かまわず歩く。壁から九十度曲がり、杏美はついに天井に立った。
足の裏に感じる天井は、さらさらとした感触だった。何歩か歩いてから片脚ずつ下ろして見てみると、それぞれの足指の腹に白い粉が丸く付いていた。こんなところで寝たらお姉ちゃん、きっと朝には粉まみれだよ。くしゃみが止まらなくなるかも。後でそう言ってやろうと思いながら、天井の中央にあるUFOみたいな形の電灯の笠に向かって歩いてゆく。次第に体が浮き上がるような感覚になる。
突然、両足が天井を離れ、でんぐり返しの姿勢のまま空中に投げ出された。上も下も分からなくなって、杏美は叫び声を上げた。
「どうしたのっ!」
ドタドタと床を蹴立てる音と一緒に、お姉ちゃんの裏返った声が聞こえた。きつく閉じていた目を開くと、目の前にはまだ天井が見えた。そして、横を向くとお姉ちゃんの顔も。
「あーあ。何してんの、そんなとこ登って」
お姉ちゃんは丸椅子に乗って杏美を見ていた。もういつもの声に戻り、眉をひそめて笑っている。全身の力が抜けて、また背中に温もりを感じる。目玉が熱くなってくる。
お姉ちゃんの枕を顔にぎゅっと押し付けて、杏美は涙が出そうになるのを我慢した。
(了)