阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「天窓の部屋」田中こちこ
女は奔走していた。裕福な都会暮らしだったが、心穏やかではではなかった。一人娘が学校を休みがちなことが一番の悩みだった。自宅で各分野の学習ができるようにと、家庭教師もすでに何人か雇っていた。
だから、買い物帰りの並木通りで、その若者を偶然見つけた時には心が踊った。
こんなチャンス、めったにないわ。
娘の感性を育てるためには適任だろうと直感した。女は、ためらわずに近づいた。
「ねえあなた、あなたさえよかったら、うちでいっしょに暮らさない?」
日本語が通じるかとか、断られるかもしれないなんて考える暇はなかった。それにもし拒まれても、有無は言わせないつもりだった。こちらには、それなりの力がある。
声をかけられたあの日から、私は雇い主の家族と共に暮らし始めた。
もちろん最初は不安もあったが、彼らが示した条件は悪くなかった。娘の話し相手をする見返りにと、まず自室が与えられた。広く清潔で安全な住まいだ。私はその肉体美ゆえか、命を狙われる危険にあうことも珍しくなかったのだ。しかしここでは、新鮮な食事と快適な温度管理までもが約束された。
娘に初めて会った時のことは忘れない。
「こんにちは。あなた意外と大きいのね。それに、顔もけっこうかっこいいよ」
初対面の私に、臆することなくものをいうさまは母親譲りだろう。賢そうな子だった。
ただひとつ、娘の方から訪れなければ、私は勝手に部屋から出ることは許されなかった。
非人道的な話だったが、もう遅かった。
与えられた部屋は、飾り気のない壁面に対し、天井には規則的に並ぶ、明るい天窓が配してあった。天窓の向こうの星空を想像しながら眠るのが、私の日課だった。
娘が私に、アメやケーキをくれることがあったが、口はつけなかった。雇い主が酒を用意したこともあったが、論外だ。嗜好品は私にはなんの役にも立たなかった。
娘の話は退屈で、とりとめがなかった。アイドルの噂話や誰かの悪口。だがそのうち、両親の特異な趣味や、カードの暗証番号まで悪びれもせずささやくようになった。私は、黙ってうなずくばかりだった。
私の部屋には、どうやら隠し扉があるらしかった。眠っているところへ、目隠しをされ、部屋の外へ連れ出されることが度々あった。他の部屋を見られたくないのか、あるいは娘との接触を警戒されたのかもしれない。
しかし自室へ戻れば、いつも美しく整えられ、新しい飲み物が用意されていた。
雇い主が、どうしてそこまで自分によくしてくれるのか、本当は何を期待していたのか、実は初めから気づいていた。
私の家系の情報を、どこで手に入れたのだろう。私の、演奏家としての資質を、彼らは前々から見抜いていたらしい。そして、その時のくるのを辛抱強く待っていた。
時に郷里を思い出し、胸が押しつぶされそうになる夜もあったが、ここでの暮らしに不平など言えはしなかった。
ある夜、ついに私は演奏を始めた。体の奥底から、湧き上がるような熱のかたまりが私をふるい立たせた。
深夜にもかかわらず、雇い主らが聞きつけてきた気配を感じた。彼らは何も言わなかったが、暗闇の中に、満足そうな感嘆の息が伝わってきた。
その日を境に、すべては演奏を中心に回り出した。自分でも押さえられない衝動だった。
娘は毎日、至近距離で私の様子を見守っている。雇い主にいたっては、私に無断で撮影をしていたが、そんなことは問題ではなかった。とにかく、命がけだった。
しかし、次第に私は孤独にさいなまれるようになった。考えたくはなかったが、天窓から見える空はいつだって嘘っぽかった。残された時間が少ない予感もあった。
もう、迷いはなかった。今の私が求める物は、残念ながらここにはない。もう一度太陽の下に戻るために、私は超人的な力で壁をよじ登り、天井に届いてしまった。
「あなたのこと、調べさせてもらったのよ。私のための演奏じゃなかったんだね」
娘は、少し寂しそうに言った。
翌朝、突然部屋が持ち上がり、やがてどこかへゆっくりと着地した。
土の匂いに見上げると、天井ごとずれて取り払われてゆくところだった。青空をバックに、娘の巨大な顔が私を覗き込んでいた。
「今までありがとう、楽しかったわ」
差し伸べられた娘の手のひらから、私は草地へ降りた。
「さようならコオロギさん、元気でね」
礼を言うかわりに、私は思いきり跳躍した。私の大切な仕事、まだ見ぬ伴侶を探しに行くために。
(了)