阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「圏外」石黒みなみ
久しぶりの休日だった。目が覚めたが、すぐに布団から出たくはなかった。窓からの陽射しは春めいているが、まだ寒い。布団を入ったまま天井を眺めていると、地図のような灰色のしみがあるのに気がついた。じっと見ていると、しみは少しずつ広がってきている。と思ったら、ぽとり、としずくが顔の上に落ちた。思わずはね起きた。水漏れだ。
二階の女だ、と思った。何度か見かけたことがある。派手な色の服を着て、安物の靴のかかとを踏んで郵便受けからチラシを取り出していた。あいつ、朝から風呂に入ろうとして、浴槽から水をあふれさせたとかそんなんじゃないのか。俺は布団を部屋の隅に寄せ、洗面器を置いた。ぽとり。またぽとり。この調子じゃすぐ洗面器はあふれてしまう。天井のしみはどんどん広がってゆく。とりあえず、鍋とフライパンも持ってきて、これから水の落ちて来そうなあたりに置いた。
パーカーをはおって、急いで外に出た。階段を駆け上る。おんぼろマンションだ。ちょっと水をあふれさせたりしたら、ひとたまりもないだろう。
インターホンを押した。しばらくして
「はい」
と不機嫌そうな女の声がした。まだ半分寝てるんじゃないのか。人のことは言えた義理じゃないが。
「すみません、下のものですが、水もれしてます」
「はあ?」
女はもっと嫌そうな声を出した。
「水がぽたぽた落ちて来てるんですよ! 何かあふれてるんじゃないんですか!」
女が出てきた。間近で見るのは初めてだった。乱れた長い髪をかきあげると、くっきりした眉と大きな目がのぞいた。
「それはこっちが言いたいわよ。ちょっと見てよ」
女は俺の腕をつかんで中に引き入れた。引きずられるようにして、部屋に入った。そっくり同じ間取りだ。ちょうど俺の布団の上あたりで、薄紫のカーペットがびしょ濡れになっている。見上げると白い天井に灰色のしみができていた。ぽとり。ぽとり。
「この上か!」
俺はまた外に飛び出して上に駆け上がった。女はついてきた。インターホンを押すと、初老の男が出てきた。男はむっとした顔で俺たちを睨みつけた。
「なんだよ。今取り込み中なんだよ」
「水、あふれてるでしょ」
「こっちが言いたい。今から上の部屋の奴に文句を言いに行くところだ」
「え?」
初老の男と俺と女は上の階に駆け上がった。
インターホンを押すと、男の怒声が聞えた。
「遅いじゃないか!」
荒々しくドアを開け、出てきた若い男は
「早く水止めろよ!」
と叫んだ。
「こっちのセリフだ」
と怒鳴り返すと、
「水道屋じゃないのか? 朝からずっと電話して留守電に入れてるんだけど」
若い男は大家に電話してもつながらなかったという。そうか、電話か、と思ったが携帯は部屋に置いてきてしまっている。
「持ってる」
女がポケットから携帯を出してかけた。
「だめ。出ない」
俺と女はまた階段を上がった。上の階は中年の夫婦だった。
「管理人さん、全然連絡取れないのよね」
「朝からずっとバケツやら鍋やら総動員してるんだが」
その上も、その上も、みんな天井から水が漏れてきているのだった。馬鹿みたいに階段を上がりながら、このぼろマンションはこんなに高層だったかと思った。上がっても上がってもきりがないのだ。エレベーターはなかった。だから、こんなに上まであるはずはないのだ。階段を上るのも疲れてきた。いつのまにか俺と女だけになっていた。
次の部屋では、インターホンを鳴らしても、誰も出て来なかった。留守だろうか。女が携帯を見て言った。
「圏外だわ」
疲れた体をひきずるようにしてまた階段を上がった。階段をのぼりきったところで、視界が開けた。そこは屋上だった。そして夜になっていた。
「どうしたの」
うしろから女が聞いた。俺は女を引き寄せてそばに立たせた。屋上は水浸しで、小さな池のようになっていた。夜空を映した一面の水は、建物の端まで来ており、かろうじて溢れずにとどまっていた。子どもの時に本で見た、昔の平たい地球の果ての絵を思い出した。俺は星空を見ながら、女を抱き寄せた。
(了)