第74回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「天井の清水くん」荻利行
ふと、鏡を見た。荒れた唇が不自然な艶と人工の深紅を纏い、不機嫌そうに歪んでいた。鏡から目を逸らし、持っていた通勤鞄を無造作に投げた。鞄は薄汚れた布の上にへたり込んだ。布の正体は、数日前に着てから洗っていないスカートだ。スーツを脱いで下着姿になる。足先で床の物を除けながら歩く。ベッドに腰掛け、左手で栄養ドリンクを飲みつつ右手でスマホを見ると、彼氏からメッセージが来ていた。
「もう一か月も会ってない」「仕事忙しいの分かるけど、これじゃ付き合ってるって言えない」「一人暮らしなのに散らかってるからって呼んでくれないし、正直信用できない」「できれば仕事休んで。一度話したい」。
何故理解してくれないのか。腹が立つ。今休むなんてあり得ない。同期にも、後輩にも、誰にも負けるわけにはいかないのに。
既に深夜だった。怒りと疲れは眠気を呼んだ。ベッドに寝転がって天井を仰ぐ。
途端、眠気が吹き飛んだ。
真っ白い天井。何もなかったその場所に、巨大な、真っ赤な唇がくっついている。部屋の横幅目一杯の大きさだから、二メートル以上ある。健康的な赤色と、自然な艶が目についた。私と違って。
驚いて固まっていると、唇からにゅっと赤く長い舌が伸びてきて、私の左手の栄養ドリンクの瓶を器用に巻きとり、そのまま唇の中に引っ込んだ。もぐもぐ動いているから、食べているのか。
次の日の朝起きても、唇はそこにいた。昨夜は結局、どうしたらいいか分からず、呆然としているうちに眠ってしまった。何故かずっと、怖いとは思わなかった。
思いついて、近くに転がっていた空っぽのペットボトルを、天井の唇に向けて差し出した。やはり、赤い舌が伸びてきて、もぐもぐと食べてくれた。
それから数日間、私は仕事から帰ると、天井の唇に部屋中の物を食べさせ続けた。明らかなゴミ。ずっと着ていない服。昔好きだった漫画。散らかっていた部屋はみるみる物が減って、すっきり片付いていく。何を食べさせても、勿体ないとか、代わりに新しい物が欲しいとは思わなかった。帰るのが楽しみになって、週末には久しぶりに定時で帰れた。忙しくても、その気になればどうにかなるものだ。ただ、彼氏に連絡する気にはなれなかった。
天井の唇が現れて、初めての休日を迎えた時、部屋には必要最低限の物しかなくなっていたが、私はもう止まれなかった。重い家具や家電は軽く持ち上げれば良い。べたつく冷蔵庫。クローゼットの奥で埃をかぶっていた、憧れのブランドの鞄。湿気で裏側にカビが生えたベッド。備え付けの古びたエアコン。誕生日に彼氏から貰ったネックレス。傷んだ髪が一本絡まっていた。最後には着ていた服、下着まで脱いで食べさせた。
私の部屋は本当に空っぽになった。
赤い舌が私の方へと伸びてくる。そうして腰へと巻き付いた。そうか、こうなるのか。そうだよな、と納得した。多分、恐怖心は最初の夜に食べられてしまったのだ。栄養ドリンクの瓶と一緒に。
唇の内側は真っ暗で、心地よく揺れていた。あのもぐもぐは唯の振動だった。気づかなかったが、この唇の内側に歯はなかった。
暖かい暗闇。裸のまま寝転がり、心地よい振動に身を任せていると、全てが理解できてきた。これまで私が食べさせた物は、まだここに全て残っている。けれど少しずつ溶け、振動で混ざって一つになろうとしている。ここにある物全て、私は大切にしてこなかった。捨てはしなかったけれど、本当の意味では捨てていたようなものだ。だから、みんな一緒に食べられてしまったのだ。
突然、真っ暗な空間に幽かな光が満ちた。光の元は顔の近くにあったスマホで、着信を知らせていた。画面には彼氏の名前。
「ごめんね。」
ここから出て、あの部屋に戻らなければ。重い体を持ち上げる。足先は軽く溶けて、他の物とくっつき始めていた。元来た方向へ這い進み、唇部分に辿り着いてこじ開ける。
私は光の中に落ちた。
私自身は奇跡的に無事だったが、部屋は酷い惨状だった。唇の内側、あの不思議な空間で溶けてくっついていた物は元に戻っていたが、全てがシャッフルされて私と一緒に落ちたのだ。私は笑った。本当に久しぶりに笑った。片付けはきっと大変だけれど、楽しみだと思えた。
天井を見上げると、唇も笑っていた。この唇が笑うの初めて見たな、と思っているうちに、すっと消えてしまって、それから二度とは現れなかった。
(了)