阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ニライカナイに一番近い島」叶多マサ
岬公園のベンチから見渡す海は、太陽の反射が幻想的で、まるで大量のアメジストが天に向かって輝いているようだった。
観光案内板によると、この地域には“ニライカナイ”という他界概念があるそうだ。
ニライカナイとは海の向こうの理想郷と考えられ、そこから島へと神様や死者の霊がやってきて豊穣をもたらすとされている。ニライカナイに一番近い島――この島はそう呼ばれているそうだ。
光煌めく地平線に目を凝らすと、あの先には異世界が無限に拡がっているように思わされた。
空未は、ベンチに座って波音や風のそよぎに心ゆくまで身を委ねていた。こうしているだけで、心に渦巻いていた絶望や悲しみが自然と消え去っていくようだった。
人と付き合うことに心底疲れてしまった。静かなところで一人になりたかった。そんな時にたまたま雑誌で見たこの岬の写真にどういう訳か心惹かれ、導かれるままにやって来た。この景色が自分を慰めてくれる唯一のもののように思えたのだ。
ふと目をやると、先ほどまで誰もいなかったベンチに六十代ぐらいの女性が座っていた。地元の人? それとも観光客だろうか?
その女性は、ベンチの上や下を何度も覗いては何かを一生懸命探しているようだった。あまりにも慌てているようだったので、空未は思わずその女性に掛け寄った。
「あの。どうかされましたか?」
「あぁ……ボタンがなくなってしまってねぇ」
「ボタンですか? どのような?」
「これ。このベストのボタンが」
女性は着ている薄紫色のニットベストのボタンを指差した。確かに、上から二番目が無くなっていた。
「茶色のボタンですね」
空未はその女性と一緒にしばらくボタンを探すことになった。屈んでベンチの周辺に落ちていないことを確認してから、ベンチから徐々に離れながら、丁寧に足元を見る。柵の近くまで来たところで、草陰に丸く反射している何かをみつけた。
「あった! ありましたよ。ほらこれ」
空未は嬉しくなって、みつけた茶色のボタンを女性に向かって掲げて振った。
急いで駆け戻ってボタンを手渡す。女性は柔和な笑顔を浮かべて迎えてくれた。
「ありがとう。もうみつからないかと思って。本当に助かったわ」
「あぁ。良かったです。みつけられて」
「このベスト、娘が編んでくれたものでね。」
「そうだったんですか。娘さん、編み物お上手なんですね」
女性は受け取ったボタンをどこにしまっておくか迷っているようだった。
「あの。もし良かったら、私ソーイングセット持っているので、取りつけましょうか?」
お節介かもと思いつつも空未は申し出た。
「甘えてお願いしてもいいかい」
「ええ。もちろん」
空未は、かばんの中から常備している小さなソーイングセットを取り出し、針に糸を通す準備をする。
「あっ……しまった」
そう言えばこの間、茶色の糸を使いきってしまったことを思い出した。しかも、黒も白もほとんど長さがなく、今まともに使えるのが赤い糸しかなかったのだった。
「あの……すいません。私から言い出したのに。今、赤い色の糸しか持ってなくて。茶色のボタンに赤い糸は目立って変ですよね?」
空未が申し訳なさそうに言うと、女性は笑顔で
「お姉さんが付けてくれたことをずっと忘れないでいられるから嬉しいよ。赤でつけてくれるかい?」
申し訳ない気持ちで、女性からベストとボタンを受け取った。赤い糸でしっかり、いつもより一針一針丁寧に取り付けた。
「ありがとう。あなたみたいな素敵なお姉さんと会えて嬉しかった」
心なしか少し目を充血させた女性は、礼を言うと公園を去って行った。空未はどこか安心できる女性のその背中をいつまでも見送っていた。
そうしている間にキラキラしていた水面はすっかり落ち着きを取り戻していた。
旅から戻り数日後、お土産を手に実家へ寄った。母はこの時期恒例の、今年自分で着るセーターをせっせと編んでいた。
「今年は薄紫色なんだ?」
「あんたのおばあちゃんがこの色が好きでね。歳とって趣味も似てきたのかしら」
母は懐かしそうにアルバムを出して来た。
空未が産まれる前に亡くなった写真の祖母は、薄紫色のベストを着て穏やかな笑顔を浮かべていた。そして、ベストの上から二つめのボタンだけが赤い糸で縫いつけられていた。
(了)