第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キスマーク」岸田怜子
(やっぱり、あの人そうだったんだわ……)
その日ミサキが脱衣所で見つけたのは、赤い口紅がべったりとついた夫の洗濯物だった。彼女はそれを見て、長年抱いていた疑問を確信に変えた。
そうとは知らない夫は、風呂場でシャワーを浴びながらのんきに鼻歌を歌っていた。
ミサキと夫のヒロユキは大学の同級生で、三年前、卒業と同時に結婚した。ミサキが子供について尋ねると、ヒロユキは毎回、「まだ急がなくてもいいんじゃないかな」と返すのだった。
(思えば、結婚する前から変だったのよね。なんの記念日でもない日にプレゼントをくれたりして)
プレゼントは洋服だったり、ネックレスだったり、化粧品だったりした。しかしそれらは全てミサキの好みとは異なっており、貰ってもタンスの肥やしになることが多かった。
(あれは全部、私に選んだんじゃなくて……)
「おーい、ミサキ、リンスが切れてた。新しいのを取ってくれ」
秘密がバレているとはつゆ知らず、ヒロユキは風呂場から顔を出した。
「ちょっとあなた!」
ミサキはすかさず、夫の鼻先に洗濯物を突きつけた。
「私の口紅、勝手に使ったでしょ!」
キスマークは、ヒロユキが今日一日着用した布マスクの「裏側」についていた。
「……女の人になりたいとか、そういうわけではないんだよ」
リビングの床に正座して、ヒロユキは言った。
「ただいつの頃からか、ピンク色とか、リボンとか、シフォン素材の服とか、化粧品とかに、すごく憧れるようになって……」
「それで、自分が着れないかわりに、私を着せ替え人形にしようとしたのね」
「うん。でもミサキが使ってくれないからあんまり意味なくて。それどころか、自分が身につけたい欲がもっと大きくなっていって……。 洋服は会社に着ていけないけど、口紅なら、今はマスクで隠れるから……、それで」
ヒロユキはしょんぼりと肩を落とした。
「こんな男らしくない夫とは別れる?」
ミサキはため息をついた。
「……あのねえ、わたし、あなたがずっと口紅をつけてみたかったことや、口紅をつけて会社に行ったことを怒ってるんじゃないのよ」ミ サキの言葉に、ヒロユキは顔を上げた。「でもね、口紅なんて口に直接触れるものを、今のご時世に共有したら危ないでしょ。そこはもっと考えて欲しかったわ」
ミサキは立ち上がると、寝室に向かった。しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さくて細長い箱が握られていた。
「ほら、前に貰ったやつ」
それは口紅の箱だった。
「タンスの中にしまってたの。これなら使ってないから大丈夫。あなたにあげるわ」
ヒロユキはぽかんと口を開け、妻と口紅を交互に見た。
「……ほんとに怒ってないの?」
「怒ってないわよ。今どき男の化粧なんて珍しくないし。それに、私もヒロユキの気持ち分かるわよ。昔、男の子みたいになりたくて、ズボンばかり履いていた時期があったもの。でも男の人はなかなか、スカート履きたくても履けないものね。今までずっと我慢して辛かったわね。別に誰に迷惑にかけるでもなし、これからは好きにしていいのよ」
「でも……」
「どうしたの?」
「……実は、ミサキの口紅を塗った時、がっかりしたんだ。思ったより可愛くならなくて。口紅って、塗るだけで可愛くなると思ってた。やっぱり、男じゃ可愛くなれないのかな」
「口紅だけじゃそこまで変わらないわよ、もっと色々塗らないと。それに、人によって合う色は違うし、私が使ってるのが、たまたまヒロユキに似合わなかっただけよ」
「そうなの?」
「そうよ。でも多分、その口紅ならヒロユキの顔色に合うと思う。塗ってあげるわ」
ミサキは夫の唇に紅を引いた。ヒロユキは鏡を見て、「わあ」と声をあげた。
「今度、他の化粧品も買いにデパートに行きましょうか。二人で」
「店員さんに追い出されない?」
「そんなお店、こっちから断ってやればいいのよ」
ミサキはそう言ってニッコリと笑った。
(了)