第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「マスク美人」森本久美
「ほんと、びっくりしちゃったわ。ナンパされるなんて何十年ぶりかしら? しかも、その男の人、見たところ二十代? いってても三十代前半よ」
妙なテンションで母は話し続けた。
「でね、『私、五十代なんですけど……』ってマスク外したら、その人『失礼しました!』って慌てて逃げて行ったわ。ほんと!失礼な話!」
と言いつつ、まんざらでもない口調に、僕は「うれしそうに見えるけど?」と、からかった。
「そうかしら? 口裂け女になった気分よ」
「何、それ。妖怪?」
「サトルは知らないか。お母さんが子供の頃の都市伝説。整形手術に失敗してマスクで顔を隠した女の話。人を捕まえては『私きれい?』って聞いてくるんだけど、『はい』って答えると『これでも?』ってマスクを外して耳まで裂けた口を見せて襲い掛かってくるっていうホラー」
「はははっ! その男、お母さんに襲われなくてよかったな!」
「目だけじゃわかんないもんね。マスクつけてものまねメイクしてたタレントとかいたし。結局、アイメイクはどうにでもなるのよ」
母の言うことには一理ある。街にマスク美人が増えたな、とは僕も感じるところ。母に声をかけた男の人だって、実際二十代だったのかだって実に怪しい。まあ、なんだかんだ言ってもナンパされてうれしかったようだし、ここで母をへこませたって誰の得にもならないから、余計なことは言わずにバイトにでかけた。
今年の春、一浪を経て、念願の第一志望大学に入学できたものの、新型コロナの影響で、授業はすべてリモート。大学の門をくぐったのは、ほんの数回。家に籠っていても、社会から分断された気分で辛いから、先月から週2回、駅前のコンビニでアルバイトを始めた。
「お疲れさんで~す」
事務室で伝票整理してる店長に声をかけてから、店に出る。働き始めて1か月になるけど、マスクをしていない店長の顔を僕は知らない。面接だってマスクをしたままだった。「目を見ればわかる」ってよく言うけど、マスクの下ではこっそり舌を出しているのかもしれないのに。
レジに入って店を見回す。肉まんをショーケースに並べてる僕と同じ歳だというアルバイトの男の子も、品出ししてるパートのおばさんも、マスクをとれば、僕の全然知らない顔をしているのかもしれない。
1か月も働くと、常連さんの顔も覚えてくる。火曜日の夕方6時、必ずやってくる彼女は今日も来た。素知らぬ顔をして、レジ打ちをしながら、今日も僕は目の隅で彼女を追った。小柄で華奢な手足、ラフにまとめた髪型やカジュアルな服装も実に好みだった。
いつも通り、冷蔵の棚から話題のコンビニスイーツを選んでレジにやってきた彼女は「お願いします」と僕に目を合わせてから商品を置く。 僕の気持ちを知ってか知らぬか、勝手に「あざといな」って思いながら、何食わぬ顔で会計を済ます。
彼女がレジ袋を持って店を出ていったあと、トレーにポイントカードが置き去りにされている事に気づいた。僕には何かメッセージを伝えようとしているかのように思えて、カードを握りしめて、彼女を追った。案の定、彼女は店の外で待っていた。
「あの……忘れ物……」と、カードを差し出す。
「ありがとう」
彼女がカードを受け取ったその瞬間、「あの!」僕の口から勝手に言葉があふれ出た。
「あの……いつも来てるよね。火曜日のこの時間に……」
「あ、うん」
「僕は……今年から大学生なんだけど、今はコロナで、あれで……あ、君は? 同じ歳ぐらいに見えるけど……」
「なんで?」彼女は僕の問いにかぶせるように言った。
「なんでそんなこと聞くの?」
「あ、いや……」逆に問いかけられて、戸惑っている僕に彼女は続けて聞いてきた。
「私……きれい?」
「えっ……?」
さっき聞いたばかりの都市伝説が頭をかすめて僕は思わず「は、はい……」と答えてしまった。すると彼女は「これでも?」ってマスクを外した。口こそ裂けてはいなかったけど、僕はその顔を見て背筋が凍った。
「サトル君、全然変わらないのね」
あたり前だ。僕はアイメイクなんてしない。
「だからすぐわかったよ」
僕だってわかったさ。マスクがなければ、ね。そして絶対に声なんてかけなかった。3年前に振った女になんて。
「じゃ、また来週火曜日に」勝ち誇ったような表情で言うと彼女はまたマスクを着けて立ち去った。
やはりマスク美人には要注意だ。
(了)