第72回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「マスクマン」大川かつみ
夕食を済ませた杉山家のリビング。食卓の後片づけをしようとする女房と大学生の娘を座りなおすよう促し、あらたまって家長である杉山氏がこう切り出した。
「実はなぁ、お父さん、これからは覆面マスクを被って生きていこうと思うんだ」
「えっ?」
女房と娘が同時に声を出した。それに構わず杉山氏が続ける。
「この間、友だちのマナベが亡くなったの知っているだろう。俺より若い五十五だよ。早いよなぁ。あれでお父さん、すっかり人生観が変わってしまってなぁ。」
そこでお茶を一口飲んだ。
「……当たり前の話だけど人生一度きり、あっという間に終わるって実感したんだ。それでこれからは自分の好きなように生きようと思ってね。・・・」
「それで覆面ですか?」
女房が呆れたように質問した。
「あぁ。お父さん、昔、プロレスの覆面レスラーが好きだったんだ。永遠の憧れだな。デストロイヤーとかミル・マスカラスとか。タイガーマスクにもシビレたもんだ。」
「……」
女房と娘が顔を見合わせる。そして何かを言おうとした瞬間、杉山氏が畳みかけるように言った。
「もう、還暦も間近だし、そろそろ覆面被ってもいい頃じゃないかと思うんだ」
「ちょっと何、言っているか、よく分からない」
と娘。
「それはウチにいる間だけの事なの?」
と女房。
「いや。常にさ。会社も覆面被って行く。覆面レスラーは誰にもその素顔をみせてはいけないんだ」
「そんなこと言ったって会社が許さないでしょ?」
と女房が口を挟む。
「その事なら心配ない。もう会社には話がついている」
「うそ! そんな事あり得るの?」
娘がそう言うのも無理はない。
「社長が了承してくれた。お父さん、経理で内勤だから、お客さんと直接やりとりする事もないしね。」
そう言うとお茶で一息つき、続けた。
「それにお父さん、社長が前の会社から独立して今の会社を立ち上げる時、一緒についていった言わばオリジナルメンバーなのはお母さんも知っているだろ。今じゃ会社も大きくなって直接会う事も少なくなったけど、社長はやっぱりお父さんの事、気にかけていてくれてね、前から何か相談事があったら遠慮なく言えよって言われてたんだ。」
「それで社長さんの反応は?」
「笑っていたよ。杉山さんらしいって」
そう言うとおもむろに椅子の側にあったカバンから覆面マスクを取り出し被ってみせた。それは金色に輝く鮮やかなマスクで目や口の周りは赤で縁取られており額には“経理”と黒く印字してあった。
「どうだい。イカスだろう? メキシコで経理の修行を積んでやってきた“経理マン”という名目で来月一日から出社することになっている。勿論、国籍も年齢も不明で、私が正体と明かされない。だからカタコトの日本語で話す事になる。」
「あなた自身はどうなるの?」
「今月末で辞職扱いになる。でも心配するな。今まで通りの給与は保証されている」
「役職は課長のまま?」
「いや。それはない。平社員に戻る。でも悔いはない」
杉本氏はそう胸を張った。
既に覆面マスクまで作り会社も了承しているのだから、女房と娘としては受け入れるしかない。その後の協議の末、杉本氏は失踪したことにし、メキシコから謎のマスクの男を代わりに居候させているという設定で、近所には通す事となった。あくまでマスクマンの正体は謎でなければならないからだ。
こうして晴れて覆面サラリーマンに変身し新しい人生を踏み出すことになった杉本氏だったが思いもしれない事態になった。世界中にコロナウィルスが蔓延し、結果、世の中の全ての人がマスクマンになってしまった。
一方、杉本氏はと言うと、覆面マスクを被った上にマスクをつける事が出来ない。何故なら耳が覆面の下では予防マスクは引っ掛けられないからだ。会社にもどこにも行けず、自宅待機するしかない“経理マン”なのだった。
(了