阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「タッチストン」森啓二
その喫茶店は、都会の高層ビルの谷間にひっそりと佇んでいた。このあたりの地価は幾らくらいか、こんなちっぽけな喫茶店が成り立つ筈がない。郊外ならさして珍しくない、一階が店舗、二階が住居になった全体が、蔦に絡まれるというより埋もれている。
やっとデートにこぎつけた彼女が待ち合わせ場所に指定したのが、その喫茶店だった。
「いらしゃいませ」
カウンターの向こうからエプロン姿の初老の店主がこちらを一瞥した。つい、反射的にいつもの言葉が口を突いて出た。
「え、っと、電源席って、空いてますか」
「電源席、ですか。それは、どういう?」
単語も知らないなら、席もあるまい。適当に空いてる席を探してきょろきょろすると、
「お好きな席にどうぞ」
入口に向かって座り、早速スマホを取りだした…ん?
店主がやってきて、水の入ったコップを置いた。「御註文は」
「あの、この店、WiFiは…?」
「はぃ?ワイフは厨房に…呼びましょうか」
「いや、いぃです。コーヒーを…」
電源席も知らないのだ、WiFiを知らなくても不思議ない。
それにしても、女というのはなぜいつも時間通りに来ないのか。後どれくらいで来るのかだけでも確認しようと思い、電話をかけようとした…が、繋がらない。アンテナが全滅してる。圏外だ。こんな都会で圏外?ビルの谷間にはビル風が吹くが、だからと言って、携帯の電波まで流れるものか?
他の客たちはこの状況に耐えられるのか?そう思って辺りを見回すと、みな静かに俯いて、薄明りの下で本を読んでいる。話し声一つ聞こえてこない。下手すりゃ、ページを捲る音が聞こえてくる。その時初めて、店内には低く音楽が流れていることに気づいた。
ここはいったいなんなんだ?名曲喫茶ってやつか?それにしては、流れてる曲はシャンソンのようだ。ようだ、と言うのは、シャンソンを意識して聴いたことがないからで、「じゅぶじゅぶ」とフランス語っぽい歌声を感じただけだ。っぽい…というのも、フランス語をちゃんと勉強したことがないからで、雰囲気だけの話だ。もちろんシャンソンは名曲でないと言ってるわけじゃないけど、名曲喫茶ってのはクラシック音楽が常套だろう。
「お待たせしました」
店主が目の前にコーヒーカップを置いた。どうやら、コーヒー一杯淹れるのに一時間かけるようなこだわりの店でもなさそうだ。
「これは?」
「ご註文のコーヒーですが」
店主は訝し気にこちらを見た。
「あ、いや、どういうコーヒーですか」
「どういう?」
「あ、いや、ブルマンとかキリマンとか…」
「そういうのがお望みでしたら、他所の店にどうぞ。うちのはただのレギュラーコーヒーですから」
「あ、いや…いただきます」
慌てて口をつけたが、本当に何の変哲もないコーヒーだった。コーヒー専門店と言う訳でもなさそうだ。
喫茶店に独りは辛い。コーヒーをちびちび飲むのも絵にならないし、飲んでしまえばさっさと出てしまう。誰かと一緒なら喋ってればいいし、一人でもスマホが使えればSNSでもゲームでも時間の潰しようは幾らでもあるのだが。店内には新聞や雑誌も置かれていない、八方塞がりだ。
まるで苦行だ。コーヒーを嘗めるようにしながら時間の過ぎるのを待ったが、一時間で辛抱ならなくなって店を出た。それからもう一時間、よそで有益に時間を潰して店に戻った。こっちは一時間待ったんだ、あれからすぐに来たとして同じだけ待たせておあいこだろう。もしかしたら、向こうはさっさと帰ってしまったかもしれない。ところが驚いたことに、店が見えるところまで来た時、ちょうど彼女が店に入ろうとしているところだったのだ。二時間遅刻?
扉の前に立ち、勢いよく開けて驚かそうとして、中の声が聞こえてきた。
「帰った?」
「君は悪い子だね。彼、一時間待ってたよ」
「たった一時間かぁ。堪え性ないなぁ」
「うちの店を、そういう使い方してほしくないね。恋人試験の一次なんて」
「だって、私にはいちばん居心地いいんだから。この店で、何時間でも居られるような人じゃないとね」
(了)