阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「黄金ラベルの王子」吉田猫
ただのクズでしかなかった俺をジョニーさんが拾ってくれた。あの頃の俺は彷徨い、ふらついているだけのいじけた若造だった。
場末の飲み屋で飲んだくれた見ず知らずの俺にジョニーさんは声を掛けてくれたのだ。
「そんなに世の中が面白く無いんだったら、うちで働いてみないか。お前の怒りを仕事にぶつけてみろよ」
ふざけんなバカヤロー、と怒鳴り返すつもりで顔を上げたが、俺を見つめるジョニーさんの目が眩しく吸い込まれていくような気がして何も言えなくなってしまった。こんな体験は生まれて初めてだった。
翌日、もらった名刺を持って俺はジョニーさんの店を訪ねていた。
最初の仕事はごみ捨てと店の掃除だった。そんな仕事でも自堕落な俺が続けることができたのはジョニーさんのあの目が忘れられなかったからだ。
俺は必死に働いた。歯を食いしばりやれることはすべてやった。客に頭を下げ、先輩から押し付けられた嫌な仕事も全部こなした。やがて俺も二時の回、そして三時の回を任されるようにまでになった。うれしかった。客はまばらだったが俺は全力で立ち向かった。
ある日、そんな俺をジョニーさんは自分の部屋に呼んでこう言った。
「俺はお前に将来この店を託そうと思う」
驚いて立ちつくす俺にジョニーさんは少し照れた様子で続けて言う。
「お前を見るとな、昔の俺を見ているような気がするのさ。だからあの技を教えてやる」
その日から俺の猛特訓は始まったのだ。
あれから何年経っただろう。ジョニーさんは既にこの世にいない。けれどもあの人の魂がここにあることをいつも俺は感じる。
そして今日もスイングドアの向こうには俺を待つ人たちが大勢いる。六時ピッタリ。時間だ。さあ行くぞ。俺はドアを押し開ける。
「おおっ!始まるぞ」
「来たぞ!」
「キャー! 王子様よ!」
どよめきが聞こえる。人の群れが俺の回りを取り巻いてくる。押さないで、落ち着いて、マスク越しに俺は思わず呟く。俺はわざとゆっくりと歩きそこに立つと一度目を閉じた。回りの群衆が固唾を飲んで見守る。一瞬の静寂が訪れた。ここにいる全員の目が俺の右手に集中している。誰かが言った神の右手と。そして、俺は突然始める。
急に動き出した俺の美しい右手の動きに魅了された人々のため息が聞こえる。しかしそれは一瞬だ。見とれてはいても先に我に返った者たちから争奪戦が始まるのだ。怒涛のように俺の回りに手が伸びる。しかし俺は作業を続けるだけだ。俺の心は無だ。何も考えない。何も感じない。見えるのはただ販売台のお惣菜のみ。やることは一つ。四時の回に前座の社員が張った30%値引ラベルの上に半額ラベルを正確に美しく張っていくのだ。
直伝六割十度張り。これこそジョニーさんから学んだ技だ。30%ラベルの六割上、十度の角度をつけて半額ラベルを正確に張り続ける。すると誰もが手を出したくなるほどお惣菜の割安感が発揮される秘技だ。この技が使いこなせる者はこの業界に十人といない。
やがて必要な半額ラベルを俺は正確に張り終える。そのとき販売台にたかる群衆の一番後ろに小さな女の子の手を繋いだ若い母親がいることに気がついた。母親は殺気だった人々に怖気づいて手が出せないようだ。
「お寿司食べたいよう」小さな女の子の今にも泣きだしそうな声が聞こえた。
俺はまだ割引になっていない寿司コーナーから一番高額のさび抜き寿司のパックを取り上げると白衣のポケットからたった一枚だけの黄金に輝く禁断のラベルを取り出し十度の角度で真ん中に貼った。俺はその女の子の前にしゃがむとその寿司パックをそっと渡す。
「はい、お嬢ちゃん」
振り向いた若い母親は女の子が受け取った寿司を見て驚いた表情で俺に頭を下げた。
気がついた回りの客が騒然とし始める。
「あれは伝説の黄金値引ラベルじゃないか!」
「95%引きだって、信じられない」
「本当に存在したんだ!こいつは驚いたな」
人々のざわめきが広がっていくのがわかる。誰かが拍手を始めた。やがてそこにいる人達も両手に持っている総菜を買い物籠に入れると一斉に手を叩き始めた。一瞬にして総菜売り場の一角は拍手と笑顔に包まれていく。
「ありがとう、半額王子!」
「いつもありがとう、大好きだよ!」
「愛してるわ、半額王子!」
俺は一礼する。そして回りを見渡し声に出さずマスクの中で呟く。「俺も愛してるよ、みんな」
スイングドアの中に俺が消えると売り場に静寂が戻る。この瞬間、俺はジョニーさんの懐かしい笑顔をいつも思い出すのだ。
(了)