阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「フォーエバー」朝霧おと
どこにやったのか全く記憶がない。この十年で二度引っ越したので、そのときに捨ててしまったのかもしれない。
結婚の記念に作ったオリジナルワインは、ふたりの写真入りのラベルを貼ったもので、当時五十人ほどの知人友人に配った。
実家の母に電話をしてみた。
「そんな昔のものあるわけないじゃない。飲まなかったの?」
にべもなく言われた。
「あることすら忘れていたんだけど、急に必要になったのよ」
「必要って……あのワインが? どうして?」
「うん、ちょっとね」
あまりつっこまれたくない私は、そそくさと電話を切った。
結婚して十年。結婚前にはわからなかったことがいろいろと見えてくる。
夫の見栄っ張りでいいかっこしいのところが好きだった。デートの食事はすべておごってくれた。サービス精神旺盛でマメ。最初その気のなかった私はたちまち彼のとりこになってしまった。
結婚後もそれは続くものだと思っていたが甘かった。釣った魚にえさはやらないというポリシーなのか、夫のマメさは他の女性に移った。
こんなはずではなかったと、夫をつなぎとめるため私なりに努力した。妊娠中、彼の浮気が発覚したとき、離婚という文字がよぎったが、生まれてくる子どものためにがまんした。その子どもはもう小学生だ。
私は自分の未来を思い絶望した。こんなことの繰り返しを一生やっていくのか。それは今から何十年やればいいのか。彼がじいさんになれば終わるのか。それとも、彼は死ぬまで私を裏切り続けるのか。そして自分はこれから先もずっと耐えるのか、と。
結婚した夜、ワインを前に私と夫は約束をした。
「十年後の結婚記念日にこのワインを開けよう」
「それはいいアイデアね。十年後、熟成されてきっとおいしくなってるわ」
その記念日が一週間後に迫っていた。私はかたっぱしから友人にワインがあるかどうかたずねた。
「そんなものもらったかなあ……」
「わからない」
記憶にない、という返事が多かった。人からもらったワインに思い入れなどあるわけがない。それでも一本くらいあってもよさそうなものなのに、という思いはあった。
あきらめていたところ、記念日の前日に友人のひとりから連絡がきた。
「あなたに言われて床下収納庫を調べたらあったわ。ラベルにあなたたちの写真があったからすぐにわかった」
私は礼を言って、その夜、取りに行った。
「お、ワインか。めずらしい。おや? これって」
「あのときのワインよ。十年後、開けるって約束したの、覚えてる?」
「そういえば……今日は結婚記念日だったんだ。よく覚えていたね」
女と会ってきたその口で、夫はうれしそうに言い、グラスを持った。
「ちょっと待って。その前に……」
「なんだよ、もったいぶっちゃって。ま、これからもよろしくってことで」
「だから、待てって言ってるじゃない」
私の剣幕に驚いたようで、夫は「はいはい、なんですか」と言ってへらへらと笑った。
「離婚を要求いたします。あなたのお給料なら慰謝料三百万、養育費月六万円ですって。少ないけど、まあいいか」
夫は呆然とした。
「浮気の証拠はちゃんとあるのでしらばっくれても無駄だから。弁護士にも相談済みよ」
この日をどれほど待ったことだろう。結婚生活十年の間に夫が変わるかもしれない、と一縷の望みを抱いて生きてきたが、それももう終わりだ。
「だからこれは離婚記念日のワインなの。乾杯しましょう」
夫のグラスに赤いワインをなみなみと注いでやった。
「さあ、飲んで」
私が強く勧めると夫はしぶしぶ飲んだ。飲んですぐに夫の顔が歪んだ。
「クソ不味い。飲めたもんじゃない」
ラベルに書かれたフォーエバーの文字も、まだ若い私たちの顔も色あせている。熟成どころか、日がたつにつれて劣化していたのだ。私たちの結婚生活みたいに。
夫は自分のミスにやっと気づいたようで顔面蒼白だ。謝罪とともにやり直しを懇願するのか、それとも私の要求を受け入れ新たな女の元に走るのか。もし夫が心底後悔しているのなら許してもいい。
私は性懲りもなくそう思う自分に辟易した。
(了)