阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「文豪現る」飯田狼
岐阜県の片田舎の温泉地。下呂ほど有名ではないが、時代から取り残された様な街並みに、国外から来る観光客に人気になり始めた、その矢先、コロナウイルスの流行で営業を自粛しなければならなくなってしまった。二か月休業して、再び営業を始めたのだが、客足は戻って来ない。
「暇ねぇ~」「暇よねぇ~」「困ったわねぇ~」「本当に困ったわねぇ~」が、田丸旅館の従業員の口癖になった。
「お客様が何時いらしても好い様に、掃除と消毒は丁寧にね」
女将の良子が従業員にはっぱをかける。しかし、客が誰も居なくては士気は上がらない。
田丸旅館に、帽子とサングラスで顔を隠すようにして、客が現れた。
「部屋は空いていますか?」
男は良子が聞き取れないほどの小さな声。
「勿論です。残念ながらがらがらで、他にお客様はいらっしゃいません。ですから、一部屋と云わず、二部屋でも三部屋でも好きな様に御使い下さい」
良子は不気味なほどの笑顔で男を向かい入れた。
「そんな必要はありませんが、静かなのは助かる。暫く御厄介になります」
フロントで手続きを済ませ、男は従業員に案内されながら奥の部屋へ。
マネージャーの熱田が、良子の耳に囁いて来る。
「女将さん。今のお客さん、作家さんじゃありませんか?」
「え? そうなの?」
「私も特別、小説が好きって訳じゃありませんから確かな事は分かりませんが、間違いないと思います。マスコミ嫌いで有名な文豪ですよ」
「そんな有名人がいらしたのなら色紙にサインを頂こうかしら」
「止めておいた方がいいです。兎に角、気難しい方みたいですから」
「そうね、そうね」
良子も直ぐに納得する。仲居が恐る恐る「隣の部屋にお食事を用意致しました」と、文豪先生に声を掛けるが返事は無い。
「そのまた隣の部屋にお布団を引かせて頂いております」
仲居は逃げる様にして、その場を去る。
旅館にただ一人のお客様だけに、関係者は気を遣いまくる。
文豪先生は、一週間ほど旅館に滞在して、帰りは来た時とは違い満面の笑顔であった。
「実に静かで、三本の連載を書き上げる事が出来ました、有難う」
一月ほどして、熱田が週刊誌を手に、良子の所へ飛んで来る。
「女将さん、女将さん! うちの旅館の事が載っていますよ」
良子だけではなく、他の従業員も週刊誌の記事に釘付けになる。
――田丸旅館は静かで居心地がいい。しかし、女将は小柄で不細工。料理も特別褒める所は無い。とは言え、客は私だけだったから、三部屋を贅沢に使わせて貰った。取りあえず満足――
(了)