阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「忘れ物は何?」吉岡幸一
家に帰った途端、忘れ物をしたことに気づきました。急いで取りに戻らなければ、と私は思ったのですがそこで足は止まってしまいました。玄関で靴を脱いですぐのときでした。何を忘れてしまったのか、思い出せなかったのです。確かに私は忘れ物をしました。とても大切な物だったような気がします。大切な物だと思っているのに、その大切な物が何なのかいくら考えてもわからないのです。
今日は土曜日です。午前中息子は小学校に行って、午後からは学習塾に行っています。朝作った弁当を持っていくのを忘れていったということもありません。お迎えに行く約束はしていないので、時間的にはもうすぐ戻ってくるでしょう。
午前中私は駅前の本屋に行きました。料理の本を買いに行ったのですが、持って帰るのを忘れたのかもしれません。鞄を開けてみると買った本は入っていました。本屋を出た後、咽が渇いたのでコンビニでペットボトルを買いました。そのペットボトルも鞄の中に入っています。銀行のATMでお金を下しましたがカードはなくなっていません。鞄の中には他にも交通カードも財布もスマートフォンも入っています。思いつく限り、持って行ったもので忘れた物はないようでした。
思い違いかもしれません。忘れ物などしていない。これで一安心となればいいのですが、一向に気持ちは落ち着いてきません。もしかして思いつかない何かがあるのではないか、と私は気になって仕方がなかったのです。
玄関先でいくら考えてもわからなかったので、私は家の中にあがってダイニングテーブルに鞄を置くと、椅子を引いて腰かけて本格的に思い出そうとしました。
お昼はハンバーガーを食べました。きれいに食べたので持ち帰るような物はなかったはずです。タピオカジュースを飲みましたが、飲み干してゴミ箱に入れたはずですし、たとえ飲み残したとしても忘れ物というほどの物ではありません。
物ではなく事かもしれない、と思いましたが、友だちと街で会う約束はしていませんし、映画を観る予定もなければ、夕飯に使う食材を買い忘れたということもありません。そもそも今日は食材を買う日ではないのです。家賃も支払い忘れていませんし、友だちに読み終えた小説を貸すことを忘れていたということもありません。宝くじの発表を確認し忘れてもいません。全部外れたのは確認済みですから。知らず知らずに私は唸り声をあげていたようです。学習塾から帰ってきた息子が不思議そうに私の顔をのぞきこんでいました。
「お母さん、体のぐあいが悪いの」
息子は心配そうに言いました。
「あら、おかえりなさい。お母さん、忘れ物をしたみたいなんだけど、何を忘れたのかを忘れて思い出そうとしていたのよ」
「ややこしいね」
息子は安心したのか可笑しそうに笑いました。手にはテストの答案用紙を持っていました。手渡された答案用紙を見ると百点でした。早く見せたかったのでしょう。息子はランドセルを背負ったままでした。
「忘れていないよね。百点を取ったら自転車を買ってくれるっていったよね」
「もちろん忘れていないわよ。日曜日に自転車を買いにいきましょうね。お父さんもきっと喜ぶと思うわよ……」
私はハッとしました。ようやく忘れ物の正体がわかったのです。今日私は夫と一緒に出かけたのでした。そして夫をどこかに忘れてひとりで家に帰ってきてしまったのでした。きっと本屋に違いありません。お昼のハンバーガーを食べる時にはいなかった気がします。
「お母さん、忘れ物を思い出したから、いまから取りにいってくるわね」
私は鞄を握ると急いで迎えにいこうとしました。慌ててしまっていて、電話をかけるとかメールで連絡をするとか思いつかなかったのです。玄関で靴を履こうとしていたら、ドアが開いて夫が帰ってきました。夫は玄関に私が立っているのを見て驚いたようでした。
夫は頭を掻きながら申し訳なさそうな顔をしていました。薔薇の花を一輪さしだすと頭をさげました。私の好きな赤い薔薇です。近所の花屋の包装紙で飾られていました。
「いや、忘れるつもりじゃなかったんだ。本屋で本を選ぶのを夢中になって、いっしょに来ていたのを忘れてしまったんだ。近くの花屋の前に来たときようやく思い出してね。ほんとゴメン、忘れてしまって……」
夫は探るような目を向けながら言いました。
「そんなこと気にしなくてもいいのよ。誰だって忘れることくらいあるから。それより今日、あの子がテストで百点を取ったのよ。明日、みんなで自転車を買いにいきましょう」
「ああ、忘れずに買いにいこう」
夫はほっとした顔をして、私も夫以上にほっとした顔をしました。
(了)