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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「あの頃の雨」川上さとる

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第67回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「あの頃の雨」川上さとる

 実家の母を訪ねると、キッチンには未開封のしょう油が七本あった。嫌な予感がして洗面所を覗くと、同じ洗濯洗剤のボトルが収納スペースに収まりきらず大量に並んでいた。リビングの床には雑誌が積み上げられている。

 多いときには六人が暮らしたこの家もいまでは母一人になった。部屋の壁にはお薬カレンダーが掛けられているが、ここ四日分の薬が入ったままになっている。洗濯物はもうずいぶん洗っていないようで、洗濯かごに溜まっていた。今日はここに来るなり、洗濯機を二度回したのだった。

「由美ちゃんは、今日は何時までいられるの」

 母が炬燵の中からのんびりと言った。この質問は三度目だった。

「さっきも言ったじゃないの。四時よ」

「あら、そうだったかしら。じゃあ晩ご飯は食べていかれないの」

「だから、則夫さんが七時には帰ってくるから。夕食の支度があるし早く帰らないと」

「ふうん」

 母はすでに関心をなくしたように、よそ見をしていた。

 そろそろ洗濯物を取り込んでしまわなければ。窓の外の空は厚い雲に覆われていた。

「ママ、シーツとバスタオルはまだ生乾きだからあとでしまってね」

 ベランダから部屋に向かって叫んだが、返事はなかった。

「ねえ、由美ちゃん。ママのお財布、どこかで見なかった?」

 洗濯物を抱えて部屋に戻ると、母は部屋をうろうろと歩いていた。

「ううん、私は見てないけれど。財布、見当たらないの?」

「いまね、お財布を出そうとしたら、ここに入れておいたはずなのに、なくなってるの」

「前回、出かけたときに使ったバッグの中に入ったままになってるんじゃないの?」

 私がそう言うと

「帰ってきたら必ず、お財布はここのタンスの引き出しに入れてます」と母は力を込めた。

「もう一回、よく探してみたら?」

「ねえ、由美ちゃん、あなた、本当に知らない?」

「知らないわよ」

「ふうん」

 母は上目遣いで私を見ていた。

「私がどこかに隠したとでも言うの」

 つい尖った声になっていた。

「だってこの家にいるのは私とあなただけなんだもの」

「知らないって言ってるでしょ」

「いつもの場所にないからあなたに聞いてるんじゃないの」

 ため息をつきそうになるのをこらえて、母が最近、外出をしたときの服のポケットを探すことにして、上着のポケットに手を差し入れると、手になにか固いものが触れた。

「ママ、これじゃないの」

 三つ折りの財布を取り出して母の前に突き出す。財布はぱんぱんに膨れずっしりと重かった。

「あら、そんなところにあったの」と母はけろりとして財布を受け取ると引き出しにしまった。

 母に会うのは、夫の則夫と共に訪れた正月以来だった。あのときにはこんな様子は見られなかったのに。

 先日、一人暮らしの高齢者が認知症が進行するドキュメンタリー番組を観ていた夫に「きみもお母さんの様子をちょっと気にしてあげたほうがいいよ」と背中を押され、今日は実家へとやって来たのだった。

「ママ、やっぱりおかしいわよ。一度、病院に行って診てもらったほうがいいと思う」

「誰でも勘違いの一つや二つはあるわよ」

 母は言った。

「いまのことだけを言ってるんじゃないのよ。ママ、お買い物のときに、何でもお札で払ってるんでしょ。もうお釣りの計算ができないんじゃないの? 財布は小銭でいっぱいじゃないの」

 母は目を見開いた。

「しょう油や洗剤だって、買ったことを忘れて同じものを何度も買ってきちゃうみたいだし。台所はしょう油でいっぱいだし、洗面所だって」

 母は黙って私を睨んだ

「一緒に物忘れ外来に行こうよ。今はお薬もあるし、きちんとお医者さんに診察してもらえれば安心だし」

「何よ、私のことを病気だって言うの。私は行きませんからね」

 母はぴしゃりと言うと立ち上がり、続けた。

「もういい! 私は帰ります」

「何を言ってるのよ、ママの家はここでしょう」

 思わず声が大きくなった。

「お邪魔しました」

 ドアをばたんと閉めて母は出て行った。

 母はどこへ帰りたいのだろう。五人きょうだいの末っ子として、両親やきょうだいたちから可愛がられて育った記憶の中の家だろうか。

 雨音が聞こえ、シーツとバスタオルが外に出したままになっていたことを思い出す。ベランダに出ると、細かい雨が降っていた。

 私はこどもの頃、学校に傘を持っていくのをしばしば忘れていた。雨に降られてしまった放課後、母はよく校門で藤色の傘をさして待っていてくれた。母は昔から藤色が好きで、傘も決まって藤色だった。いつも「おかえり」と言って私を傘に入れてくれたっけ。母は覚えているだろうか。

 いま、母は傘を持っていないはずだ。取り込んだ洗濯物をソファの上に放り出し、玄関に急ぐ。サンダルをつっかけると、傘立ての中から藤色の傘をつかんだ。

 きっと、この角を曲がったところに母はいる。あの頃の雨の日に母がしてくれたように「おかえり」と言おうと決め、私は雨の街に駆け出した。-

(了)