阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「夕日は淡く世界を浸して」つちやぼたん
暗闇の中で、寝ているのか起きているのかわからないような頭で考える。
大好きな人に、フラれた。
こういう日が来るんじゃないかなって、なんとなく思ってた。わたしを残して彼が去ってしまう日が。それが、昨日でも一週間前でもなくて、たまたま今日だっただけだ。いつかは来る運命だったんだ。
わたしのこと、本気じゃないんじゃないかなって思うことはたしかにあった。わたしと一緒に歩くとき、いつもうつむいてつまんなさそうにしてたし、「どうしたの?」って訊いても、何も教えてくれなかった。本当は、手をつないで歩くとき、「不安だよ。もっと強く手を握ってよ」って言いたかったけど、重い女って思われたくなくて言わなかった。ただ黙って彼に尽くした。彼を守るためなら、自分が汚れてもいいって思ってたから。
でも、結局、「便利な女」だったのかな。
ある夜のことだった。彼はいつもより遅く帰ってきた。外は雨が降ってから、わたしは彼を心配してたんだ、濡れた姿で帰ってくるんじゃないかって……。でも、そんな心配をよそに、彼は、あろうことか別の女を連れて帰ってきた。わたしと一緒に暮らしてる家に、知らない女を!わたしが「ちょっと、どういうこと?」って問い詰めたら、「急な雨だったんだから仕方ないだろ」って言ってた。たしかにその人は全身濡れていて、寒いのか肌からは血の気が引いていた。だから、わたしの隣で寝かせることは許したけど、その人が図々しく何日間も居座っていたときは、さすがに怒りが爆発しそうだった。
やがて、女は彼に連れられて、それきり現れることはなかった。でも、以来、わたしは彼を信用できなくなっていた。
「わたしじゃなくても、別にいいんでしょ?」
わざと大きな声で言ってみた。彼からの返事はなかった。ああ、もう終わりだ、出て行ってやると思ったけど、そんなときに限って彼と一緒に出掛けたときの思い出がたくさんたくさんよみがえってきた。彼は雨男で、デートの日は雨ばっかり。だけど、わたしは雨が好きだった。叩きつけるような強い雨でも、誰かが泣いてるような涙雨でも、彼と一緒ならどこまでも行ける気がしてくるから。
本当に、本当に、大好きな人だった。この人には、心を開いて尽くしてきた。だけど、終わるときはあっけないものだった。
夜に予定があると言っていたその日、彼が出掛ける間際に夕立が降り始めた。彼はわたしの手を握ると、夕立の中を駆け出した。予定にないデートだったけど、彼は奔放な人だってわかってたから、わたしは何も言わなかった。でも、なんだか胸騒ぎがした。この慌てよう、悪い予感が当たらなければいいなと思いながら、わたしたちは電車に乗った。それまで駆けてきた彼は息が乱れていた。列車の端の席が空いていて、腰かけると彼はスマホをチェックし出す。スケジュールでも確認してるんだろうけど、わたしは脇の手すりにかけられて、まるでないもののように扱われた。わたしは外をぼんやり見ていた。雨は既にやんでいた。窓の外は灰色がかった炎の色をしていた。夕日の光が雲を透かして、淡く世界を浸しているような不思議な色。眺めながら、わたしはうとうとし始めた。夕立で身体が濡れて、疲れていた。
そして、目を覚ましたとき、彼はもうそこにいなかった。
はじめはわからなかったけど、駅員さんに回収されたとき、はっきりと自覚した。わたしは彼に置いていかれたんだ。
「傘の忘れ物、またですよ」
見るとわたしみたいに忘れられた傘たちが、もう何本も事務室に置かれていた。そこには、かつて彼が連れてきた女みたいな、ビニール傘も多くあった。わたしはビニールではなくて、丈夫に作られた傘だけど、置いていかれた今となっては、どの傘も同じ、惨めなものだった。
それから薄暗い部屋で何日も保管された。変なタグをつけられて、有象無象の傘の忘れ物のうちの一本として、昼だか夜だかもわからない生活を余儀なくされた。わたしは浅い夢の中で、彼と歩いた日々を思い出していた。
もう何日経ったかわからないある日、部屋に光が差した。係の人が掃除しに来たのかと思って、片目を空けてたら手をぐっと引っ張られ、傘たちの中から引き上げられた。
捨てられる!
そう思って身体をこわばらせたとき、懐かしい声がした。
「ああ、それです! その傘です!」
まさか、と思って声のする方をおそるおそる見た。――彼だった。彼はわたしを探しに来てくれたのだった。彼の手に渡ったわたしは、涙をにじませながら「ばかぁ……」と言った。彼は「ごめんな」と言った。そして、一段と強く、わたしの手を握ってくれた。
(了)