阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「笑う狐」髙橋百合子
急に右足が出せなくなり黒い革靴の裏を見ると、地熱で溶けたチューインガムがナメクジのように貼り付いていた。靴の底を地面に擦りつけて、何事もなかったかのように真希は歩き出した。
葬儀場には、真希の家族と従兄弟たちがもう到着していた。祭壇には、口を真横に引き結んだ伯母の遺影が飾られていた。
葬儀が始まり火葬に移っても、泣く者はいなかった。唯一、喫煙所で勢いよくしゃがんで裂けたズボンから覗いた従兄弟の真っ赤なトランクスを見て、真希の母は涙が出るほど笑った。母の顔は、伯母の死を笑っているようだった。真希は久しぶりに会った母を、改めて不快に思った。
精進落としの席は、披露宴のような賑やかさだった。誰一人、伯母の死を悼んではいなかった。
「真希ちゃんは、伯母さんのこと知ってる?」
隣に座った従兄弟が、大声で尋ねた。
「そんなことより、家の子に誰かいい人いない? いい年して本当に恥ずかしい」
いきなり割り込んできた向かいの母親を、真希は睨んだ。
「おお、怖。その目、遺影の姉さんにそっくり。三白眼が余計際立つからやめなさいよ」
そう言った母の目は、蛇のようだった。
「伯母さんって、どんな人だったんですか?」
巻き寿司に手を伸ばしながら、従兄弟が母に尋ねた。
「高校卒業してすぐ、両親がせっかく見合い結婚のいい話を持ってきたのに断って、蒸発しちゃったのよ。器量も要領も悪い姉さんのためだったのに破談にしたの。学もないのにあれからどうやって生きてたんだか」
真希は、さっきよりも強く母を睨んだ。
「なによ、言いたいことあるなら言いなさいよ。あんたが姉さんと会ってたって聞いて驚いたわよ。実の母には意地でも会わないくせに。ひねくれ者」
真希はバッグを掴み、無言で席を立った。
「そうやってすぐ逃げる! 姉さんみたいに孤独に死ねばいいのよ!」
母の声を背に、真希は葬儀場を後にした。
都会のビル街は、嫌な暑さだった。右足のベタつきは取れたが、母の声がナメクジのように耳に纏わりついている。
真希は地下鉄に乗り、行き慣れた庭園に向かった。伯母とよく訪れた場所だった。
夏の庭園は、大きな池を囲むように緑が生い茂っていた。
真希は、東屋に腰かけ庭を眺めた。人影がなくひっそりとしているが、庭じゅうに、無数の命が蠢いているようだった。
真希が初めて伯母に会ったのは、祖父の通夜だった。その頃高校生だった真希は、祖母や母が纏う女らしさに、厭らしさがあることに気付いていた。焼香に現れた伯母には、これまで真希が見てきた親族とは異なる雰囲気があった。親しみのある、さっぱりとした立ち姿だった。足早に去る伯母を呼び止めて、真希は密かに連絡先を聞き出した。
定期的に会うようになって、伯母が長年清掃の仕事をしていることを知った。真面目に、隅々まで手早く掃除する伯母の姿を想像した。テレビと酒が楽しみなことも知った。だが、病気で入院したことは知らされなかった。連絡もつかなくなった。再会したのは、病院の霊安室だった。
行きがけに買っておいたビールをバッグから取り出して、真希はプルタブを上げた。右足を組んで一口飲むと、雨が降り出した。
いつの間にか、青かった空が灰色に沈んでいた。遠くで雷が鳴った。
雨脚はだんだんと強まり、庭の奥の方までけぶって見えた。火葬場の匂いがした。
太鼓橋の上を、白い影が横切った。真希は眼をみはった。雨で重たくなった白無垢の女が、東屋に走り込んできた。
「結婚するの嫌になって、逃げてきちゃいました」
真希と同じ位の見知らぬ女は、ビル向こうの古い神社を指差した。指先が震えていた。
手で口紅を拭い取って、女が笑った。一瞬、伯母の顔に見えた。
真希は、飲みかけのビールを女に渡した。女は、一気に煽って大きな息を吐いた。
霧雨に変わり、池には光が差し込んだ。
「これじゃ、嫁入りやめた狐ですね」
そう言って笑いながら伸びをする女に倣って、真希は思い切り体を反らせた。
(了)