阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「まちあわせ」麦野陽
暗闇に一つ、大きな目玉が浮いている。
これは夢だろうか。わたしは自分の頬を引っ張りすぐに離した。鈍い痛みが頬に伝わるのと同時に大きな目玉はばちんと瞬きをした。
数分前のことである。夕立と共にやってきた雷にわたしは驚き、いつも通り押し入れの中に隠れた。押し入れに隠れるのは子どもの頃からの癖だ。雷以外にも、つらいこと悲しいことがあるとわたしはすぐに押し入れに隠れた。もちろん会社にいるときは、押し入れなどには入らないしどこにも隠れない。ぐっと手を握り我慢している。もう三十も目前に迫っている男が雷が怖いなどという〝かっこわるい〟ことが他人にばれてはならない。しかし、ここは自宅だ。誰に気にすることなく隠れることができる。今回もそのはずだった。
「……めっ」
すぐに言葉を発することはできなかった。何度も何度も「め」を繰り返し、なるべく大きな目玉と距離をとろうとわたしは試みた。しかし、子どもの頃ならいざ知らず随分大きくなったわたしの身体ではまともに距離をとることができない。慌てて押し入れから出ようとするとここ数年で一番大きい雷が鳴った。
「うあああああああああああ!」
野太い悲鳴をあげ、わたしは手近にあった枕に自分の顔を押しつけた。しかし枕から寝汗の臭いがしてわたしはたまらず顔をあげる。ぼわぼわとした明かりに目を向けると、目玉は変わらずそこに浮いていた。
「雷、怖いんですか」
目玉はぎょろりと目を動かして言った。いったいどうやって喋っているんだろう。思って黙っていると、「あれ」と呟いて目玉は瞬きをした。
「聞こえてます? 雷、怖いんですか?」
「どっちも怖いよ!」
つい、わたしは声を荒げた。雷も目玉もどっちも怖い。わたしは何か悪いことでもしただろうか。どうしてこんな目に?
「どっちも?」
目玉は目を細めると、「なるほど」と呟いてぐわと見開いた。
「実はぼくも驚いているんだよね。まさか人間に見つかるなんて思っていなかったからさ」
アハハ。大きな笑い声にわたしは思わず耳をふさいだ。さっきの雷とほぼ同じ音量にわたしはたまらず目玉に言った。
「こ、声をおさえてくれ」
「ごめんごめん」
目玉はすぐに笑うのをやめて静かになった。しばらく沈黙が続いたが、わたしは口をひらいた。
「ところでどうしてそこにいるんだ」
「暇つぶし」
目玉は答えた。暇つぶし? 答えになっているようでなっていないその解答にわたしは頭を傾げた。
「ああ、あのね。待ち合わせしているんだけど、暇だから人間の世界でも見ようかなって思ったわけ。いつもは人の視線がこない場所で見ているんだけど、きょうは接続がうまくいかなくて。人間いないし、別の場所に移動しようかと思ったら君がきた」
グッドタイミング。目玉はそう言って、ばちんとウィンクをした。わたしは目玉が言っていることの意味を理解できなくて混乱していた。これだけの大きな目玉だ。きっと身体はわたしの何十倍も大きいだろう。別の世界の生き物? まさかそんな物語みたいなことがあるわけない。
どろろろ。低い地響きがしてわたしは身構える。地響きと落雷の感覚があけばあくほど大きな雷が落ちる。家中の食器が割れるような音にわたしはもう一度寝汗臭い枕に顔を埋めた。
「そんなに怖いのかい」
「悪いか!」
わたしは震えた。これだから夏――夕立は嫌いだ。だんだんと汗ばんできたおでこをわたしは袖で拭う。
「悪かないさ。……お、きたきた」
目玉はそう言うと一瞬消えた。いなくなったか。わたしがホッとしているとすぐに現れた。
「ぼくそろそろ行かなくちゃならないんだよね。暇つぶしのお礼にこれ止めてあげるよ」
なにを? 尋ねる前に目玉は早口で言うと今度こそ消えた。そろそろと手を目玉があった場所に伸ばすと、なにもない。いったいなんだったんだ。わたしは自分の頬をもう一度引っ張る。やはり、痛い。これを誰かに話したいと思ったが、同時に押し入れに隠れていることもばれてしまう。想像しただけでわたしは震えた。
蜩が鳴いている。そろりと押し入れからでるとクーラーの冷気にホッと息を吐く。わたしは立ち上がりカーテンを引く。雨雲は遠く消え去っていた。
(了)