阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「いつも雨宿り」吉田猫
夜行バスの中で夜明けに目が覚めてしまい、カーテンの隙間から流れていく高速道路の風景をぼんやりと見ながらあたしはいつの間にか、たかし兄ちゃんのことを考えてた。
たかし兄ちゃんがうちのとなりに引っ越してきたのはあたしが小学校に入る前だった。たかし兄ちゃんのおばちゃんが離婚して三年生だった兄ちゃんと二人で実家に帰ってきたのだと後で聞いた。初めて会った夏、激しい夕立が降っていたことをなぜか今でも覚えている。兄弟のいないあたしはたかし兄ちゃんにいつも遊んでもらった。たかし兄ちゃんが学校の友達と遊んでいるときですらあたしはいつも兄ちゃんの後ろを追いかけるようについて回ったことを思い出す。
でも中学生くらいになるといつも不機嫌なあたしはたかし兄ちゃんとほとんど口を利くことも無くなった。それでも兄ちゃんはあたしを見かけると、おう、と気軽に声をかけてくれた。けれども、あたしはただだまって頷くだけで顔を上げることもしなかった。
あたしが高校に入る頃にはたかし兄ちゃんはもう農業高校を卒業して農協で働いていた。あたしはその頃ちょっと荒れていて学校で何度か問題を起こしては片親で必死に働いていた母が学校に呼び出された。そんなとき一緒にたかし兄ちゃんが来てくれたことがあった。泣いている母を職場へ送った後たかし兄ちゃんは街の喫茶店であたしにフルーツパフェをごちそうしてくれた。
「あんまりおばちゃんを泣かせんなよ」
たかし兄ちゃんはそう一言だけ言うと後はもう何も言わなかった。後悔の気持ちでいっぱいなのにふてくされた顔しかできないあたしの気持ちを兄ちゃんはきっとわかっていてくれたのかなって今では思う。
都会に憧れていたあたしは高校を卒業すると逃げるように東京に出ていった。小さな町工場の事務員だったけど、ちゃんと就職することができたのもたかし兄ちゃんが仕事を探してくれたからだ。でも二年働いて母にもたかし兄ちゃんにも何も言わずそこを辞めてしまった。一人暮らしは大変だったけれど都会の生活は楽しかった。恋愛もしたし失恋もした。結局辛い思い出になってしまったけれどアルバイト先の上司と不倫もした。
でも東京に出てきて七年も経つとあたしは自分が空っぽなことに段々気がつき始めていた。ある朝、鏡を見ていたら自分がほとんど抜け殻になってしまっていることがはっきりとわかって急にたまらなく悲しくなった。
「帰ろうかな」小さな声で自分にささやいた。
再び目が覚めたのはちょうどバスが終点の隣町の大きな駅に到着する少し前だった。バスは人と荷物を下ろし出ていく。乗客が皆いなくなってしまってもあたしはその場所に佇んでいた。そのとき後ろから声をかけられた。
「荷物そんだけか? 少ねえな」
振り返るといつものちょっと照れた笑顔のたかし兄ちゃんが立っていた。
「おばちゃんから聞いたんだわ。おばちゃん、待っとるぞ」
「今日、仕事大丈夫なん?」
「ああ半日休みもろうたから大丈夫だわ」
たかし兄ちゃんが「車、駐車場に止めとるから」と言ってあたしのスーツケースを持とうとしたときにバラバラと音がしたかと思うと急に暗くなっていた空から大粒の雨が降り始めた。夕立だ。
「ああ来てもうたわ」兄ちゃんが暗い空を見上げながら言った。
駅前の軒先に二人で下がると一瞬にして雨は激しくなり風も吹き始めた。
「たかし兄ちゃん、結婚式、いかんでごめんな」
たかし兄ちゃんが去年結婚したと聞いたことを思い出してあたしは言った。
「ああ、ええわそんなこと」
「もう兄ちゃんのお嫁さんにしてもらえんね」あたしは小さな声でつぶやいた。
「なんだって?」
激しい雨の音で聞こえなかったのか、たかし兄ちゃんはあたしの顔を覗き込んで聞く。
「うん、何でもない。雨、凄いね。夕立だね」
「しょうがねえな、車とってくるわ」
そう言うとたかし兄ちゃんは雨の中を駆け出していった。
ちょっと待てばきっと雨はやむのに、それでも水煙の中を飛び出していく姿がいかにもたかし兄ちゃんらしくてちょっと笑ってしまった。でもその後ろ姿を見ていたら都会のあわただしさですっかり忘れていた兄ちゃんのいつもの優しさがしみじみと身に染みてきて、なんだか今度は涙が出てきた。
気がつくと雨宿りをしている人が回りにたくさんいてその中で一人泣いているのがとても恥ずかしくなってしまい、あたしは口に手を当てて下を向いた。
雨の音が少しだけ静かになった。
(了)