阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「カサの向こうの虹」こうのことり
新しいカサを試したく、突然降り出した雨の中に出た、大きさの割に軽く、足もともそれほど濡れることはない。良いカサだ。
数人の少年たちが、雨に濡れながらも楽しそうに走っていく。少年たちを見て思わず笑顔になった古川は、六十年前を思い出した。
恵まれない家庭環境だった。暴力的な父と、家事に無頓着な母。友だちもいない。先生にも無視をされていた小学校三年の夏の出来事。
突然降り出した雨に困っていた。濡れて帰れば父に殴られる。友だちと一緒に帰っていく子。迎えに来てくれた親と帰っていく子。楽しそうに帰る子たちの後ろ姿を見ていた時、不意に声をかけられた。
「あれ、マサキ、どうしたんだ」
カサを持つ僕を、不思議そうに見る五年生のコウイチがいた。
「あの、早く雨がやまないかと思って……」
慌ててカサを隠す。
「あぁ、そうか。カサが壊れたんだね」
見られた。わざとじゃない。こけたんだ。でも、後ろめたかった。
「俺のカサを使いなよ」
高そうな紺色のカサ。手が出ずに困っていると、コウイチが僕のカサを取りあげた。
「カサ直してあげるから、俺の家においでよ」
壊れたカサと交換するように、紺色のカサを手渡したコウイチは、すだれのような雨だれの向こうに出た。
「ちょ、ちょっと、待って」
慌ててコウイチを呼びとめるが、雨にうたれながら、手招きをしている。
「俺は濡れていくからいいんだ」
コウイチは濡れることが楽しいかのように口笛を吹き出した。壊れたカサを持つコウイチに申し訳ない気持ちになりながら、あとをついていく。
コウイチの家は工場だ。ちょうど高齢の男性が中から出てきた。
「じいちゃん、ただいま!」
「なんだ! またカサを壊したのか!」
怒鳴りつけるコウイチの祖父に驚き、マサキはあいさつも忘れて固まった。
「へへっ。まぁ俺じゃないんだけどさ。カサを直したいんだ。いいかい?」
コウイチの持つ僕の壊れたカサと、コウイチから借りたカサを持つ僕を、コウイチの祖父が見比べる。
「仕事中だ。ジャマにならねぇようにしろ!」
コウイチの祖父は、首にかかっていたタオルを投げてきた。
コウイチは頭をガシガシ拭きながら、中に入るように促してきた。大きな機械の音のする中、四畳半くらいの部屋に入る。机にカサを直す材料を広げ、座るように促してきた。
コウイチは、骨の折れ具合を見ながら「この程度ならすぐ直せるな」とつぶやいている。慣れた手つきでカサ布を外し、折れた骨を交換するコウイチがかっこよかった。
「すごい……」
「俺よくカサを壊すから、じいちゃんにカサ直しを仕込まれたんだ」
手際よい見事な作業に見惚れていると、コウイチが戸惑う様子で声をかけてきた。
「あのさ、いつもマサキって一人でいるからさ……その、気になっていたんだよ」
何を言われるのかと、身構えた。
「俺さ、一年生の時に、友だちが出来なくていつも一人でいたんだ」
いつも友だちの中心にいるコウイチに、友だちがいない時があったとは想像もできない。
「でも、二年生になった時に話しかけてくれたやつがいてさ。そうしたら俺からもみんなに話しかけるようになれて、一人じゃなくなったんだ」
コウイチはそれ以上話すことはなかった。黙ってカサを直し続けている。「よし!」カサ布を張り終えたところで、カサを閉じたり開いたりして、カサを手渡してきた。
「どうだい?」
「すごい! ありがとう、コウイチくん」
交換した骨が新しいが、気にして見なければ分からない。これで父に怒られない。外に出ると雨はやみかかっている。
「うわ、でっかい虹だ」
走っていけばたどり着きそうなほど近くに、大きな虹がかかる。コウイチが二ッと笑った。
「カサ直ったのに、雨やんじゃったな」
明るくなってきた空と同じように、コウイチの笑顔もまぶしかった。
その後も、家庭環境は変わることがなかったが、学校で友だちができた。担任の先生も変わった。下を向いていた時と違い、世界が広がった。
中学卒業後は、地元を離れ必死に働き、設備会社を立ち上げ経営するまでに至った。
「あぁ、六〇年前と同じだ」
雨がやんで明るくなってきた空に、大きな虹がかかる。亡き友へ思いをはせていた気持ちを映し出したかのような眩しい空だった。
(了)