阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「無賃乗車」秋あきら
雅也がその駅のことを聞いたのは、二学期に入って最初の校外摸試の前日だった。
放課後、忘れ物を取りに教室に戻ると、ケンタとヒロシが話し込んでいた。二人は雅也が入ってきてもかまわず話し続けた。
「マジだって。兄貴の友達の友達が北浜学園でさ、教えてもらったんだ。北浜駅のホームにある待合室の裏、フェンスに隙間があって、そこから簡単に駅の外に出られるんだって」
北浜学園は、明日行われる校外摸試の会場だ。中学三年生になって、定期的に行われる校外摸試は、たいていそこが会場だ。
「ふうん。でもさ、乗る時はどうすんの?」
「だから、西口駅から乗るんだよ。あそこは自動改札っていってもしょぼい無人駅じゃん、踏切から楽勝で入れるだろ」
西口駅の傍には踏切がある。ホームの端と、わずか三メートル程の距離だ。二人がやろうとしていることに気づいた雅也は、急いで教室を出た。
しかし一度聞いてしまった内容は、忘れようとすればする程、かえって頭から離れなくなった。西口駅は雅也の家から西に二キロは離れている。通常の最寄り駅から試験会場の北浜駅までは片道三百五十円。西口駅からだと片道五百円。往復、千円だ。千円を好きに使えると思うと、雅也の心は揺れた。
そして昨夜、明日の摸試は西口駅から乗りたいと母に告げた。案の定、不審な顔で問い返された。
「何でそんな駅から乗るのよ?」
「ケ、ケンタたちと待ち合わせしてるんだ。あいつらの家、西口駅に近いから」
さらりと言ったつもりだったが、変に声が上ずった。母は、腑に落ちない様子ながらも、財布から千円札を出して雅也に渡してくれた。
翌朝、雅也は予定よりかなり早く家を出た。みんなが来る前でなくてはならない。駅までは自転車で向かった。駅前に無料の駐輪場があることは知っている。
チェーンロックをかけている時、ふいに罪悪感が襲ってきた。自分なんて、自転車を盗られても仕方ない人間なんじゃないか。でもそれはほんの一瞬で、すぐに、手に入れた千円で何を買うかという事で頭は一杯になった。マンガか、お菓子か、帰りにハンバーガーを買ってもいい。ケンタたちは、きっとゲーセンに行くんだろうなと思った。
雅也は駐輪場を離れると、目の前の改札ではなく、左に逸れて踏切まで歩いた。その間、誰にも出会わなかった。ホームにも人影はない。よし、いいぞ。何かに背中を押された気分になった。素早く辺りに視線を走らせると、開いた踏切からさっと線路内に侵入した。そこからホームの端についている数段の階段までを一気に駆け上がった。ホームと階段を仕切る柵には、さすがに鍵がかかっていたが、雅也の腰の高さまでしかなく、容易にまたぎ越せた。ホーム内に入ると、そのまま中ほどまで進んで大きく息をついた。
やった。やってしまった。心臓が大きく波打っている。しかし、その鼓動が治まらないうちに、雅也の耳に大きな汽笛の音が響いた。
汽笛だって? 聞こえるはずのない音を耳にして、雅也は息をするのも忘れて線路の先を見た。
線路をやってきたのは、本物の蒸気機関車だった。ただし、その車体は赤黒い血のような色をしている。目を見張る雅也の前で、盛大に煙を吐きながら汽車は停まった。
ゆっくりと扉が開いたが、そこから降りて来る人はいなかった。それどころか、乗客は一人もいない。扉の向こうは暗く、まるで洞窟の入り口のように見えた。雅也は急に恐ろしくなって、体が小刻みに震えだした。その時、雅也の震える肩を誰かがいきなり掴んだ。
「ひいっ」
「何だよ、そんなに驚かなくてもいいだろ」
ケンタたちだった。
「だけど雅也ん家って、こっちの駅だっけ?」
ほっとしたのもつかの間、今の状況をどう説明しようか言葉に詰まった。
「ま、いいけどさ。それより、早く乗ろうぜ」
驚いたことに、ケンタたちは当然のようにその汽車に乗り込んでしまった。雅也がためらっている間に、扉は音もなく閉まった。汽車は二人をのみ込むと、満足そうに車体を震わせたように、雅也には見えた。
やがて汽車が行ってしまうと、雅也は弾かれたようにホームから走り出た。柵を飛び越え、線路を走って踏切から出た。正面に回って駅舎に入ると、券売機で切符を買い、改札を通った。
不思議なことに、駅にはまばらながら人がいた。ホームにはすでに電車が停まっている。それは、いつもの電車だった。雅也は胸をなでおろすと、その列車に乗り込んだ。ケンタたちはどうしただろうかと思いながら。