阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「Love Of My Life」高橋百合子
洗ったばかりの黄ばんだタオルを、目いっぱい開いた助手席のドアに掛けてパンパンとはたく。ついこの間まで、汗でぐっしょり濡れたのを絞っていたのに、ドアに掛かってひらひらとはためくタオルは、冷たくなっていた。厳しい冬を目前にして、栄治は深い溜息を吐いた。この道の駅の、だだっ広い駐車場の南端に陣取ってから半年が過ぎていた。定年間際にリストラされたのを機に、六十五の誕生日から始めた車上生活は三年目に突入し、すっかり板についてしまっていた。
平日にも関わらず、道の駅は紅葉客で賑わっていた。栄治は、いつも通り併設されているコンビニで買ったおにぎりを、見晴らしのよい展望エリアで食べた。栄治と同じくらいだろうか、初老の夫婦が身を寄せ合って、楽しそうに紅葉のパノラマに見入っている。栄治はぼんやりとその夫婦を眺め、おにぎりを食べきらないうちにその場を離れた。
歩いて一時間かかるガソリンスタンドで手に入れた灯油を抱えて戻ると、外はすっかり暗くなっていた。昼間に買っておいた菓子パンをかじりながら、唯一捨てずに持ってきた一冊のアルバムを開いた。ショートカットの優しい妻が、栄治と肩を寄せ合って微笑んでいる。六十の歳になるまで栄治は、妻と二人、慎ましいがそれなりに楽しく、充実した人生を送ってきた。来年は銀婚式だと話していた矢先、妻は、春に見つかったガンの進行が早く、その年の暮れに逝ってしまった。
「悔しい、悔しい……ごめんねぇ」
今際の言葉と、両頬に伝った涙の筋が、栄治の脳裏に鮮明に刻まれている。昼間見た仲睦まじい夫婦が思い起される。羨ましさや嫉妬はとうに越え、ただただ悲しみだけが込み上げてくる。妻は自分の全てだった。苦労をかけた分、日本中を一緒に旅しようと話していた。失った今、自分が生きる意味はとうに消えた。子供も友人もいない。この先、年金だけで車上生活を続けるのは厳しい。体にもガタがきている。妻との思い出が詰まったこの車を売って生活保護を受けようか。いや、いっそのこと死んでしまおう。死ねばこの生き地獄も、抉られるような虚しさも消え去るはずだ。アルバムにポタポタと落ちる涙で、妻の顔がぼやけ、遠く夏の日の蜃気楼の彼方に消えていくようだった。
はっと目を覚ますと、隙間から入り込んでくる空気がさらに冷たくなっていた。
夜中よりも、この早朝が辛い。また長い一日が始まると思うと、このままずっと眠っていたくなる。少し離れたワンボックスカーで、おしゃれなアウトドア着の若い男女が眠そうな目を擦りながら荷物の整理をしている。時々、小さな弾んだ笑い声が聴こえる。あの若者たちは、まさかこの道の駅に住み着いている老人がいるなどと夢にも思わないだろう。
駅は、出発地と目的地を結ぶ通過点に過ぎない。それなのに、目的地もなくこうやって居座り続ける自分は、人間といえるのだろうか。栄治は、力なく車のドアを閉めると道の駅の出口から、国道に向かってふらふらと歩き始めた。このまま歩き続けて、力尽きたところで死のう。国道沿いを歩き始めたとき、先の方に、さっきの若者たちの中にいた一人の女の子が、耳のイヤホンに合わせて体を揺らしながら歩いていた。この先のコンビニまで朝食の買い出しだろうか。女の子が道を横切ろうとしたとき、大型のトラックがスピードを上げて栄治の横をすり抜けた。まずい。体の倦怠感も忘れ、栄治は本能のまま走った。
ドンっという鈍い音と共に、栄治の体が宙に持ち上がった。走り去るトラックの振動が消えていくと、優しくメロウな歌声と旋律が栄治の耳に流れ込んできた。転がったウォークマンから、雑音交じりに響いてくる。聴こえる。まだ生きている。
「おじさんっ……! ごめんなさいっ……!」
涙と鼻水にまみれた顔が栄治を覗き込み、体の上でわっと泣き伏した。女の子の体温が、栄治の冷え切った体に染み込んできた。人肌を感じたのはいつぶりか。とても温かい。栄治はゆっくり体を起こした。
「えっ、起きないほうがいいよ! 救急車呼びます!」
「それが、大丈夫みたい」
あれだけ鈍い音で飛ばされたのに、栄治の体は軽い打ち身だけだった。ウォークマンの画面には「LoveOfMyLife」の文字が光っていた。生きている。栄治は、仰向けに倒れ込んだ。日の光に照らされ、体がゆっくりと温まってくる。まだ、生きられる。栄治は目に涙を滲ませながら、フッフッフっと静かな笑い声を上げた。