阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「日常」かく芙蓉
人間というものは、なぜにこう醜いものなのだろう。
俺は毎日そんなことを考えながら、駅のホームに立つ。
「お客様、ホームドアに近づかないで下さい」
ホームドアに、体を寄りかからせる客に注意でもしようものなら、
「うるせえ!混んでるから仕方ないだろ」
何故か俺が怒鳴られる。
「すみません。危険ですので」
俺は表情一つ変えずに、頭を下げる。
朝のラッシュ時。都会の駅のホーム。誰もが余裕なく、ぎすぎすしているように見える。いや、これが人間本来の姿なのか。
「ホームを走るな」と言っているそばから、駆け足で通り抜ける客。スマホを見るのに必死で、平気で人とぶつかっていく客。何食わぬ顔で横入りする客。で、それに逆上してケンカを始める客。周囲が顔をしかめるくらいの音量で、音楽を聴いている客。ヒールで人の足を踏んでも知らんふりする客。いくら挙げてもきりがない。
制服を来た学生にも変なのはいるが、ラッシュ時のトラブルは、圧倒的にサラリーマンやOLが多い。
駅のホームで、毎日こんなしょうもないことを繰り広げていても、おそらくこの人たちは、会社につけば良い人のふりをして、まともに働いているのだろう。もし許されるのならば、この本来の醜い姿を動画にでも撮影して、職場のメールに送りつけてやりたい、そんな衝動にさえ駆られる。
俺だって本当は、こんな惨状を毎日見るために、駅員になったわけではなかった。生まれ育った田舎の小さな駅では、駅員と客は皆顔見知り。笑顔で挨拶を交わし、出会い別れのすべてを共有する存在だった。長閑な田園風景に浮かぶ濃紺の制服と帽子は、子どもの頃の俺の憧れだった。俺もあんな駅員になりたい……そう思っていたはずだったのに。
「こちらの電車、満員です。これ以上のご乗車はご遠慮下さい。次の電車をご利用下さい」
俺は最後に乗り込んだ乗客の体を押しながら、電車のドアを閉めようとする。あと少しだ。その時、誰かに体当たりされた。
「痛っ!」
俺の力が緩んだ一瞬に、スーツ姿の女が無理矢理乗り込んだ。こいつか、今体当たりしてきたのは。
「おい、もう乗るなって言ってるだろ!」中から怒号が聞こえるが、女はおかまいなし。近くにいた後輩が駆け寄ってきて、一緒に車内にねじこんだ。
やれやれ。これが都会の朝の日常だ。
昼も過ぎて、ようやく駅は落ち着きを取り戻した。これで俺も平穏な心で業務に取り組める。その時、五歳くらいの男の子が俺をじっと見つめた。
「これ、あげる」
男の子は俺に、その辺で摘んできたようなコスモスを三本手渡した。うわっ、業務中にいらねえ……とも言えないので、
「ありがとう」
俺は作り笑いでそれを受け取った。男の子は駆け足で、祖母と思われる女性の膝に抱きついた。
「あら、タッちゃん。遠足のコスモスどうしたの。ママにお仕事お疲れさま、ってあげるんじゃなかったの」
「駅員さんにあげちゃった」
「ええっ! どうして」
「かっこよかったから」
祖母らしき女性が、困惑した笑みを浮かべてこちらを見る。でも男の子の満足げな表情を見ると、返すのも気が引ける。俺は帽子をとってお辞儀をした。顔を上げると、祖母と男の子は笑顔で手を振り去って行った。
そうか。あの子には、俺がかっこよく見えたのか。
少年の頃、田舎の小さな駅で駅員と会話を交わした日々を思い出す。うん、駅員て悪くない。俺は休憩に入ろうとした後輩を呼び止めた。
「おい、これ事務室の花瓶に生けといて」
「ういっす」
後輩は不思議そうな顔をしてコスモスを受け取ると、ホームの階段を降りて行った。
俺はあの子の母親に申し訳ないような思いがした。仕事から疲れて帰った時、我が息子から、自分のために摘んだ花を貰えたらさぞ嬉しかっただろう。それがふにゃふにゃに折れ曲がった、しおれた花だったとしても。
ふと、今朝俺に体当たりして電車に乗り込んだスーツの女を思い出した。年齢的には、あのくらいの子どもがいてもおかしくないな。もしかして、あの女が母親だったり……なんてことはないか。
俺はなんだか愉快になって、笑みを押し殺しながら電車をまた見送った。