阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「別れ話」松本愛世
……深夜に別れ話をするなんてバカだなぁ、お前。感情的になって余計な事まで喋ってこじれるのがオチだぞ……。
一日の仕事を終えて混み合う電車に揺られていたら、同僚の桜木の言葉がふと蘇った。いや、桜木、それは違うな。逆に深夜だから良かったんだ。
「もう二か月も会ってくれない。メールも電話もくれない。もし他に好きな人が出来たのならはっきり言って欲しい。あれこれ悩むのは、もう嫌なの」
昨夜、零時過ぎに電話をかけてきた美樹は落ち着いた声でそう言った。
「……ごめん。俺が悪いんだ」
「もう、その人とつき合っているの?」
「ああ。つき合っている」
「そう……」
美樹と交際を始めて三年が経つ。互いの両親に紹介し合い、結婚も考えていた。だが現れてしまったのだ。俺の前に由佳が。人形のように素直で従順で可愛い美樹とは正反対の、夏の太陽のようにエネルギッシュで野心的な由佳。彼女の魅力に抗う事など不可能だった。
「美樹、別れよう。……友達に戻ろう」
俺は姿勢を正し、はっきりと告げた。
俺からのプロポーズをひたすら待っていた美樹にとっては、天地がひっくり返るようなショックだろう。「あなたと別れるなんて嫌。死にたい」と泣き出されるぞと身構える。何を言われても仕方がなかった。
だが、美樹からの返答は予想外のものだった。
「わかりました。別れましょう」
「え? いいの?」
拍子抜けして、少し声が上ずってしまう。
「うん、いいの。……ちゃんと言ってくれてありがとう」
深夜の静けさの中で聞く美樹の落ち着いた口調は、俺をしみじみとした気持ちにさせた。携帯を耳にあてたまま何気なく窓のカーテンをめくると、空の一番高い所に満月が見えた。柄にもなく感傷的な気分になる。
「その彼女、素敵な人なんでしょうね、きっと。私とは違うタイプ?」
「そうだな、違うタイプだな」
「おばさまとは似ているのかしら」
「母さんとも違うな。美樹や母さんのように、いわゆる女らしいのとは正反対。手芸や料理をするよりも、アウトドアを楽しみたいってタイプ。活動的。サスペンスドラマなんて間違っても見ない。資格試験のためにデートなんか二の次。仕事にも燃えているし。結婚なんて話になったら結婚式なんてくだらない、入籍だけでいいとか言いそうだな、由佳は」
でも好きなんだ。家庭的ではなかろうが、俺とのデートを差し置いて勉強していようが、そんな彼女を俺は好きなんだ。いつしか俺は自分が振った相手だという事も忘れて、美樹を相手に由佳について熱く語っていた。「素敵な人ね」などと優しく相槌を打つ美樹は素晴らしい聞き手だった。
「三年間、幸せだった。ありがとう。さようなら」
そうやって言葉で握手を交わすようにして、俺達は円満に別れた。
自宅に帰ると、母さんがお茶を飲みながら刑事もののドラマを見ていた。
「お帰り、今日ね、美樹ちゃんが来てくれたのよ。さっき帰ったところ。あんたが帰るまで待っていたらって言ったんだけど」
美樹が? いったい何しに?
「『おばさまに会いたくて有休を取って来ちゃった』なんて言うのよ。可愛いじゃない」
戸惑う俺をよそに、母さんは嬉々として話し続ける。
「二人でサスペンスドラマを見たのよ。俳優を見ただけで誰が犯人かわかるけど、それでも見ちゃうのよね、なんて笑いながら。楽しかったわよ。その後スーパーに行ってから二人で夕飯を作ったの」
そして母さんはうっとりとした眼差しで俺を見上げる。
「ねぇ、いつ美樹ちゃんと結婚するの? お母さん、ドレスを選んであげたいんだけど」
やられた。美樹と別れた事を、早く母さんに伝えればよかった。後悔しても後の祭りだ。母さんの中には自分になつき、サスペンスドラマを一緒に見た後、仲良く夕飯の支度をするという可愛い理想の嫁像がすでに出来上がってしまったらしい。いまさら全てにおいて正反対の由佳を紹介したところで、母さんが彼女を気に入るとはとても思えない。
円満に別れたなんて思っていたのは俺だけだった。いい気になって由佳についての情報を喋り過ぎたのだ。今頃美樹はバカな俺を笑っているだろう。
桜木、お前の言う通りだよ。深夜に別れ話なんてすべきじゃなかったんだ。