阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「死神」吉岡幸一
病院のベッドに身を横たえた若者が月を観ていた。深夜十二時を過ぎていたが若者は起きていた。さいわい病室は個室だったため他の入院患者に迷惑をかけることもなかった。
窓を開けていると初秋の風が入ってきて、木々の葉が風にゆれる音が心地よく聞こえてきた。月明かりはうっすらと病室のなかを照らしている。
「今宵はきれいな満月ですな」
若者しかいないはずの病室に現れたのは燕尾服を着た男だった。若者よりも十歳は上に見える。
「今日も来たのですか。まだまだ僕は死にませんよ」
若者はあきれたように言った。
男はこの一週間毎日深夜十二時を過ぎると病室にやってきていた。男はドアから入ってくるわけでもなく、窓から入ってくるわけでもなく、時間がくるとすっと暗闇から姿を現し、若者の枕元に立つのであった。
死神、それが男の正体である。若者が死ねばその魂をあの世に連れていくのが仕事だ。若者は死にそうで死ななかった。医者は本当ならとっくに死んでいるはずだが、と首を傾げていたほど若者の容態は悪かったが、どうしたわけが若者は死ぬこともなくいつまで経ってもピンピンとしていた。
「死んだらあの月に連れていってあげますよ」
死神は連れて行くつもりもないのに、身を乗りだすと若者の耳元でささやいた。
「月は遠くから眺めてこそ美しいものですよ。行くものではありません」
若者は迷うことなく答えた。
「肉体を離れて観る月はもっと美しいですぞ」
「このままでも充分に美しいです」
はやく仕事を終えたい死神はどうにかして若者の魂を肉体から離したかった。普通、これほど重い病気なら魂は肉体に留まるのが苦しくて自然と離れるのだが、この若者はその常識が通用しなかった。とくに麻酔や痛み止めを打っているわけでもない。それなのに平然としている。
「そんな身体じゃ、生きていても仕方ないでしょう。私とあの世にいきましょう」
死神は同情する素振りで優しく言ったが、青年は笑いながら首をふった。まるで死神との会話を楽しんでいるようだった。
死神は困っていた。死神の世界というものも人間の世界に似ていて、試験に受からなければ正式な死神として認められなかった。この死神はまだ見習いの死神であって、いまは最終実技試験の最中であった。若者をあの世に連れてさえいけば、はれて合格となって正式な死神として認められるはずであった。
このまま死ななければ試験に落ちてしまう。死神は内心焦っていた。
「どうでしょう。死んでいただけたらあなたの望みをひとつ叶えてさしあげますよ」
死神はもったいつけるように言った。死神見習いとはいえ、神の名前がつけられた存在だ。ある程度のことができる力はある。
「へえ、それじゃ、あの月を消してもらえますか。まぶしくてたまらないから」
青年は半分試すように言った。
「さっきまで美しいって眺めていたじゃないですか」
「もう充分です。もしかして月を消すことはできないんですか。消せたらすぐに死んであげてもいいんですけど……」
月を消すほどの力は死神にはなかった。月を消滅させるなんて神のなかの神、この世をつくった創造神くらいしかできないだろう。最上級の死神でも無理なことだ。
「月を見えなくすればよいってことですか」
「ええ、それができたら僕は……」
「わかりました。約束ですぞ」
死神は思いついたことがあった。両手を高くあげ夜空にむかって呪文を唱えはじめた。すると分厚い雲がゆっくりと月を覆っていき月の姿を隠してしまった。
「どうですか。これで月は消えたでしょう」
得意そうに死神は言ったが、月を覆っていた雲はすぐに風に流されてしまった。
「また月が現れてしまいましたね」
青年がおもしろそうに言うと死神は頭を抱えてしまった。これ以上の力は死神にはなかったし、ほかに月を消す方法なんて思い浮かばなかった。
寝たきりだった青年は元気にベッドから起きあがると、立って窓辺までいってカーテンをいきおいよくしめた。
「ほら、これで月は消えてしまった」
カーテンに遮られ月の姿は見えなくなった。
唖然とする死神の前で、青年はしろい煙に包まれると、燕尾服を着た老いた死神の姿になった。青年は試験管だったのだ。
「実技試験は不合格です」
死神の試験管はうなだれる死神見習いの肩をたたいた。時計の針は深夜二時ちょうどをさしていた。