阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「夜の考え事」青井百合
『夫 殺し方』と入力して検索ボタンをタップすると、驚くほど多くの検索結果が出てきた。その数なんと千五百万件。
あまりの多さに呆気にとられた。情報や知識は案外容易く手に入るようだ。調べることを躊躇し、震える手で長い時間スマホを握りしめていた自分が馬鹿馬鹿しい。
ネットで解説されている殺害方法は様々だった。毒殺や撲殺、焼殺などもある。まるでパスタのレシピでも紹介するように、淡々と殺し方を説明しているサイトを見つけて、次第に気分が高まってきた。あらゆる方法から最適なものを選ぶのは、ディナーでデザートを選ぶときのような恍惚と高揚を感じる。折角なら、一番苦しみそうな方法にしようか。それとも、事故を装って保険金も貰おうか。夫への憎しみが熱を帯びて増大し、私の体を火照らせた。
背中越しに、夫の寝息が聞こえる。彼は何も知らずに、呑気に寝ているのだ。そんな彼の図太さや警戒心の無さが余計に、私を殺意へと駆り立てる。
彼にこんな感情を抱くことになるとは思いもしなかった。仕事熱心で、真面目な人だと思っていた。彼と結婚したのも、社内で周りの目も気にせず、隣の部署の私に猛アタックしてくれたからだった。結婚して五年になるが、今もお互い同じ会社で働いている。彼は仕事ぶりが素晴らしく、後輩の面倒見も良いので、周りからの信頼も厚い。そんな彼は自慢の夫だと思っていた。
今日は残業のあと、真っ直ぐ家に帰るつもりだった。会社を出て、ひとりで駅に向かって歩き始めた途端、ビルの影から人が飛び出してきた。
「すみません、ちょっと話しませんか」
夫と同じ部署で働く橘歩美だった。橘は新入社員で、私とは八つも離れている。数少ない新人なので名前は知っているが、普段は仕事で関わることも無い。
そんな彼女が、鬼気迫る表情で私の前に立ちはだかった。一体何の用なのかわからなかったが、その恐ろしい迫力に気圧され、気付くと、彼女に引っ張られるようにして、会社から少し離れた喫茶店に入っていた。
「誠さんと、離婚してください」
席に着くなり、彼女はそう言い放った。彼女の鋭い眼差しに射抜かれそうだった。
「どういうこと?貴方に何か関係でも?」
歳の離れた会社の後輩を相手に、平静を装うとしたが、声が少し上ずった。不穏な空気を感じて冷や汗が出る。
私の反応が意外だったのか、橘は目を見開き、そして、呆れた表情をした。
「何も知らないんですね。誠さんのこと」
小馬鹿にしたような言い方が胸に刺さる。橘はスマホを取り出すと、私の前に差し出した。画面には、橘と同じ布団で眠る夫の姿が映っている。布団から覗くふたりの腕や肩が生々しかった。
「誠さんが愛しているのは、私です。メールのやりとりも見せましょうか?愛してるって、仕事中でも送ってくれるんです」
頭が沸騰しそうだった。怒りと屈辱で体が震える。夫はこの若い女と寝ているのだ。
橘がメールのやりとりも見せようとしてきたが、その手を払いのけた。慌てて鞄を掴むと、急いで店を出て全速力で走った。頭が真っ白になり、気がつくと、走りながらポロポロと泣いていた。それから先は、どうやって帰ったのかよく覚えていない。
家に帰ると、夫は先にベッドで寝ていた。
死のうかな、と思った。後輩に夫を寝取られたとなれば、会社にだって居られない。家庭も仕事も失い、悲痛と恥辱と孤独に襲われるのだ。そんなの絶対に耐えられない。
しかし、今私が死んでしまえば、夫と橘の思う壺だろう。邪魔者が消えて大喜びするに違いない。しかも私は、若い女に夫を奪われた惨めな妻という、永遠に消えないレッテルを自分に貼ることになるのだ。それだけは絶対に避けたい。夫の不倫が会社で広まる前に、早くどうにかしなければ…。そう、死ぬべきなのは、私じゃなくて夫だ。
暗闇の中、夢中になって殺害方法を調べていると、ふと名案が浮かんだ。そうだ。自殺に見立てて殺すのが良い。用意する遺書の内容はこうだ。〈妻だけを愛しているのに、魔が差して、好きでもない後輩と関係を持ってしまった。罪悪感に苛まれて毎日がつらい。死んで罪を償うことにした〉
これは我ながら傑作だ。橘への仕返しも出来てまさに理想的な終焉である。
カーテンの隙間から、明るい陽射しが差し込んでいることに気が付いた。いつの間にか夜が明けていたらしい。
仕方ない。続きはまた今夜考えることにしよう。今は方針が決まっただけで満足だ。そして、夫の殺害を少しずつ計画できるなんて、これから毎日夜が来るのが楽しみだ。