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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「嘘発見器」柴田とみゆき

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作文・エッセイ
結果発表
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第49回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「嘘発見器」柴田とみゆき

「この人、痴漢です」

満員電車の中で突然、隣の女が叫びだした。しかも俺の右腕をつかんでいる。何もしてない、と言っても女は目を吊り上げて叫び続ける。

無罪を立証するのは極めて困難のような気がした。逃げるしかない。ちょうど駅に着いたばかりだ。さいわい、いつでも逃げられるドア横に陣取っている。女の手を振りほどいて飛び出した。そして走った。わき目もふらずに走った。

気がついたら、自宅の玄関に立っていた。まだ足が震えている。どうやって家に帰りついたか記憶がない。

ちょうどパートに出ようとしていた妻が玄関に来た。俺の表情が尋常じゃなかったんだろう、妻は「どうしたの」と叫んだ。いつもの時間に出勤した夫が、こんな時間に戻ってくるのは相当な理由があるはずだ。

俺は素直に電車の中でのことを話した。もし、まんがいち俺を知ってる誰かがあの車両に乗っていたら、警察官が尋ねてくるかもしれん。そうなったときに妻が事情を知らなかったら俺を疑うかもしれない。妻には俺の無罪を信じてもらわなくちゃいけない。

妻は極端な潔癖症で、いつでも除菌シートを身の回りから離せない。人格に対しても極端に潔癖なおこないを求める。

俺の話に取り乱さないかと心配したが、いたって冷静に「無実なの」と聞いてきた。もちろんだと言うと、証明できるの、とさらに確認してきた。信じてくれ、俺は「無罪だ」と言った。妻は俺の目をじっと見た。俺は、やましいことはないから今から会社にいってくると言って、玄関を飛びだした。

その夜、仕事から戻ってリビングに入ったとき、テーブルの上にそれが置いてあった。中途半端な大きさの箱だった。これ何、と聞くと妻は「嘘発見器」と言った。どうしたの、と聞くと、貞子に借りたの、アマゾンで買ったって、よくご主人に使うらしいと言った。貞子というのは妻の短大時代の親友で、よく昼に遊びに来ているようだ。ときどき寿司の出前を取っているようで、寿司桶が台所の隅に置いてあるのを見たことがある。最近は厚かましくも、晩飯を食べて帰ることもある。こんなものどうするの、と聞くと、あなたに使うの、ここに座ってと言った。俺は腹減ってるんだ、いい加減にしろよ、と言ったが、鋭い視線に気がなえてしまい、おずおずとソファーに座ってしまった。

妻が「貞子」と呼ぶと、隣の部屋から貞子が、のそっと入ってきた。部屋の空気が急に重くなった。

本当にいいのね、と貞子が確認した。妻は黙って頷いた。貞子は慣れた手つきで嘘発見器から伸びたコードの先の腕輪のような器具を俺の右腕と左腕に装着した。ベテラン捜査官のように淡々と作業を進めていく。唐突に、貞子が言った。

あなたの昨日の行動について質問します。

それはちゃんと説明したよ、もう勘弁してくれ。貞子は、乾いた声で返事は「いいえ」とだけ答えてください、と言った。なんだよ、それ、そんな茶番に付き合えるか、そんなもん絶対やらんからな。貞子は、ちゃんと答えないと不利益になりますよ、と高圧的に言った。その言葉にしなっとなった俺に、急に、

「昨日の朝の電車はかなり混雑していた」

と言った。

「いいえ」

反射的に答えてしまった。立て続けに質問がきた。

「隣に若い女が立っていた」

「いいえ」

さっきと同じトーンで返事した。いつか本で読んだことがあるが、動揺すると嘘発見器が反応するらしい。こうなったら、この修羅場を切り抜けるしかない。

「あなたは若い女が好きだ」

「いいえ」

平常心を心がけたが若干声が低くなったのが自分でも分かった。貞子は急に大きな声で、

「あなたは満員電車の中で女を触った」

そのときブザー音がした。貞子が鬼の形相で俺を睨んだ。反射的に、

「すいません」

と言ってしまった。なんでそんな言葉がでたのかわからなかった。おそらく、ブザー音にびっくりしたのと、貞子の形相に耐えられなくなったせいだ。次の瞬間、今のブザー音は聞きなれた音だったことに気付いた。玄関ブザーの音だ。たぶん妻が寿司でも注文したんだろう、玄関の外で「お待たせしました」と出前が叫んでいる。

「有罪」と貞子が力強い声で裁定した。