阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「タワーの上で」渡会明
惚れた男の妻の話なんて、聞かなければよかった。由子は心の中でため息をついた。
「美人なの?」
けれど、同僚の佐々木がそう尋ねれば、気になって仕方がない。
「いやあ、まあ、俺なら選ばないタイプかな」
千葉の言葉に、由子の胸の中で想像上の妻の顔がぶくぶくと膨らんでいく。はっきり思い浮かべることができない、由子の愛する男が毎日対面している女の顔。
千葉のおどけた答えに、佐々木と由子はなんとなく笑う。
「職場結婚なんですよね?」
質問を止めない佐々木を、由子はタワーのてっぺんから突き落としたくなる。そもそも、その話題をふったのは由子なのだが。
「そうそう。まあ、職場で一日中いっしょにいたら、男と女だから、どうにかなっちゃうこともあるんじゃないの」
聞きたいけれど、聞きたくない。由子は展望タワーの外の景色に目をやった。
「奥さん、仕事はめちゃくちゃ出来たんだよなあ。今は専業主婦らしいけど」
「千葉さんも同じ課にいたんですか?」
二カ月後に自分たちの直属の上司になる予定の男の話なのだから、佐々木も興味津々だ。
「俺が移動してきてすぐ結婚退職したから、あんまり交流はなかったんだけどね」
千葉がそう言って、由子とさりげなく視線を合わせた。由子も口角を少し上げ、それから千葉から視線をそらした。
「そろそろ行こうか」
千葉がそう言って、二人をうながした。
「どこかで一杯、飲んでいきます?」
佐々木の言葉に、千葉は首を振った。由子へ視線を向けながら
「今日はヤボ用があるんだ」と言う。
由子はいらだちを隠すように、もう一度タワーの外の景色に目をやる。
三人は商談の帰りに、話の種にと東京で一番高いタワーの展望台にやってきていた。太陽が西の空に傾き、空が紫とオレンジのトロリとした液体を流したような色に変わっていく。ロマンチックだ、と由子の胸が痛む。
「私はもう少しここで下を見ています」
由子の言葉に千葉は怪訝な表情をする。商談が終わったら、佐々木を帰してふたりで飲みに行こう、という商談前の千葉の誘いを、由子は断らなかったのだから。
不倫相手の妻の話を聞いてしまって、面白可笑しく千葉が話して、予想以上に胸が痛んで。由子はむしゃくしゃしていた。千葉のことだから、雰囲気のよい店に由子を連れて行って、あわよくば、なんて思っているに違いないのだ。
展望台から下を見ても、高度がありすぎて人間はよく分からない。小さな家やビルが、ごちゃごちゃと建ち並んでいる。
この後の展開を、由子は想像できた。なげやりに千葉と関係を持つ自分。体の関係が出来たからといって、自分に夢中にならない女に、ムキになっていく千葉。そこに異動してくる、由子がずっと好きだった男。いけないと思いながら、その男とも関係を続けていくであろう自分。
けれどそんな未来が想像できたからといって、会社を辞めたり、異動願いを出したりはしない。その未来に突き進むだけ。
「じゃあ、俺ももう少しここにいようかな」
佐々木がのんきにそう言って、由子の隣に立つ。由子に男女の好意を示さない佐々木を、由子は好ましく思っている。
「いいよ」
由子は楽しい気分でもう一度外を見る。美しい夕焼けに、体が焼かれるようだった。ぐずぐずと立つ千葉のいらだちを感じ、由子はますます愉快な気分になった。
「じゃあ、俺は先に帰るから、何かあったら電話して」
何かあったら?未練がましい千葉の言葉に、由子は思わず鼻を鳴らしてしまう。
「由子さんって分かりやすいな」
佐々木が沈んでゆく太陽と、輪郭だけになってゆくビル群を見ながら、いつもの調子で言う。由子は佐々木の横顔を見た。
「二人で飲みに行くのを楽しみにしてたのに、千葉さんが気の毒だな」
佐々木はそう言うと、手すりに肘をかけてほおづえをつく。
「今度の部長の奥さんの話でご機嫌ななめって、面白い。まあ千葉さんも下心ありありだから、どっちもどっちか」
佐々木の言葉に、由子の胸がすくんだ。
「言いふらしたりしないから、安心してください。みえみえって程じゃないですし」
「うん。ありがとう」
二人で、暗くなった空から東京を見下ろす。
千葉からの着信で、スマホが震えている。、しばらく、美しく輝く地上を見下ろしていよう、と由子は思っていた。