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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「愚かの愛」白忌

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第47回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「愚かの愛」白忌

部屋の隅に果実が転がっている。丸く艶やかな表面に触れたいと、手を伸ばし掴む。まだ熟していない果実は、私の指先に押されようとも潰れることは無かった。指の腹で表皮の滑らかさを感じながら、私はそれに齧りつく。ぶつり、硬い果実に牙が刺さる。

痺れるような酸味が舌の上に広がり、思わず吐き出してしまった。ぐちゃりと噛み潰された黄と赤の肉と皮が、恨み言を口にすることもなく床に広がっている。後悔の念を覚えもせずに、私は齧りかけの李を捨てた。

酸味抜きを知ったのは、気紛れからなる偶然だ。部屋の隅に転がっている、果実を食べる気が起きず。放っていたのが始まりだ。李は私に放置され、それでも甘く匂っていた。

一週間と時を置いて、ふと、果実から香る蜜に気づいた。手を伸ばし、掴んだ果実に指が沈む。淡く濡れた指先を舐めれば、私の舌を支配した、鋭い酸味は消えていた。私は躊躇うことも無く、かぷりと李に齧りつく。

とろり蕩けた柔い果肉が、私の舌を柔らかく濡らす。一つ、二つ、三つ。腹が満ちるまで貪って、残った種をゴミ箱へ捨てる。無残に喰い荒らされた果実は、どうしたことか。

無知に果肉を吐き捨てた日より、随分悲痛な顔つきをしていた。捨てられた種は芽を出すことも無く、清掃係に回収された。

生果ばかりじゃ飽きが来る。私はレシピを回っては、一人料理を作りだす。皮ごと煮詰めたジャムと、ワインに漬けたコンポート。他の果実を混ぜ合わせ、飾りつけたラフティ。

元の形も忘れた顔で、李は私に貪られる。

ナイフとフォークを突き立てられて、切り刻まれた華奢な果実。ほじくり出された種は今日も、ゴミ箱の中で腐り果てる。

見つけたレシピを一通り、食べきった末に放棄した。腹は満ち満ち、舌は肥え、私は果実に飽いてしまった。けれども果実はなくならず部屋の隅で私を待つ。このまま捨てるも忍びないと、私は果実を周りに配る。時には生果を、時にはジャムを。作り込まれた料理を配れば、ただの李が金にも化けた。

私の李を売り捌いて、手に入れた金は他の果物へ。苺に蜜柑、林檎に葡萄。李ばかりが果実ではないと、知った私の欲は深く。にちゃにちゃと意地汚い豚のように咀嚼を繰り返し、私は果実を食い漁る。

ある日、私は吐き出した。今の今まで喰い漁った、生果がどろどろ溢れ出す。床を汚した果実たちは、愚かな私を眺めて笑う。なんと汚く醜いか。綺麗な果実は逃げ出した。甘い吐瀉物で汚れ果てた私に、周りもこぞって怯えだす。お前の果実など食わなければ。二度と口になどするものか。

思い思いの罵倒を口に、人々は李を投げつけた。叩きつけられた李は跳ねて、私の手元に転がった。元の形も忘れたままに、それでもそれだけが手元に残った。

李以外の全てを失くして、私も随分と年を取った。老いさらばえて痩せ細った、枯れ木の腕を差し伸ばした。部屋の隅には私を待って、転がる丸い果実が一つ。もはや李も年老いて赤から黒く色を変えた。

指先を押し付ければ、ぐじゅりと潰れる柔い肉。酔うほどに甘く腐りかけ、生果はそれでも喜んでいた。私は両手で果実を包み、そろり唇を重ねる。とろりと蜜を染みだして、李は私の口の中へ。

衰えた牙を突き立てて、こそぎ落とした肉を食む。柔らかな果肉は臓腑を遡ろうともせずに、私の血肉と変化していく。

私はどうして忘れていたのか。いいや、知らなかった。それとも、理解しようともしていなかったのか。私の傍にいた李は、これ程までに私を満たしていたというのに。

私の仕打ちに対する謝罪は、言葉ばかりでは足りぬというのに。それでも李は優しく微笑み、私に自分の体を委ねた。老いて皺寄り潰れた果実は、それでも私の咀嚼を待った。

唇を開き、牙を立て、種からぞりりと果肉をこそぐ。濃密な香りに酔い果てながら、私は最後の一齧り。ころりと宝石じみた種を一つ、残して李は消え果てた。掌の種を握ったままに、私は部屋を抜け出した。

白い部屋の続く廊下を抜けて、辿り着いた中庭の土。私は裸足で降り立って、老いた両手で穴を掘る。土にまみれ石で裂き、汚れた指先が種を掴む。歪とはいえ掘り下げた、穴の中へと種落とす。土をかければ姿は隠れ、私はその場を立ち去った。

李の種は芽吹くだろうか。愚かな男が貪り尽くした、部屋の隅に在り続けた李の種は。

植えた種が実るならば、どうか。その果実を口にする者が、優しく賢い人間であるように。李の純真と献身に見合うだけの、美しい精神を持つ者であるように。

李が転がっていた部屋の隅、私は横たわり目を瞑る。もう此処にはいない果実に、伝えるには遅すぎた言葉を囁いて。

「ありがとう、愛していたよ、君のこと」