阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「幸福な食卓」廣田和子
奇妙な客が来たのは、半月ほど前だ。
男は私の黒髪を褒めたり、思い切り引っ張ったり首に巻き付けて絞めあげたりしなかった。その代わり灯りを強くし、裸の私を長椅子に座らせた。舌を出させ、腕を持ち上げ隅々まで撫でまわした。触れられるのは慣れているが、男の態度は二月に一度、悪いものをもらっていないか診察に来る老医師を思い出させた。
幼い頃から布をきつく巻いて造り上げられた小さな足を皮の厚い大きな手が注意深くなぞる。二つの足は男の左の手で包めるほどだった。ふいに私を突き放し、窓辺に歩いていく。
「月が出ている。綺麗だよ」
笑うと目元に二筋の皺ができる。裸のまま立ち上がり、大げさに見えぬ程度に体をくねらせながらゆっくりと男に近づく。
「素敵な歩き方をするね。その足で走れるかい?」
残酷な問いだった。
「できる限り速く走り、あの奥の扉に触れて戻ってくるんだ」
私は言われた通りにした。裸のまま五回も無様に転び、それでも扉まで行きつき、最後は這うようにして男の前に倒れ込む。あれだけの距離なのに体中から汗が噴き出した。思い切り吸い込まないと空気が体に入ってこない。
「無理をさせた。最初の歩き方より今のほうがずっといい」
「二度とごめんだよ。人の不格好な様子を見るのがそんなに楽しいかい」
刃物をもっていたら、投げつけてやったのに。目の力で人が殺せればいいのにと本気で思った。
「纏足のせいもあるけれど、余計な体力をつけないようにされているようだね。暫くの間、食事を摂らないといい。食べたふりをして、こっそり処分すること。これを持ってきた。味気ないけれど力がつくよ。一週間後にまた来る」
渡された巾着の中には賽子のような、濁った茶色のものが三十ほど入っていた。
奇妙な客の言う通りにすると、分かったことが沢山あった。
一日に二、三回ほど客の相手をしなければいけないが、出される食事を摂らないと、今までとは比べものにならないくらい辛かった。大金を払うことができ、他の娼館では断られてしまうような人間がこの館にはやってくる。食事の中に感覚を鈍らせる薬が入っているに違いない。
昼食がすむと、私たちは中庭で体を休めることが許されていた。
「ユーラ、こっちにおいでよ。この菓子美味しいよ」
タオがみっちりと白あんが入った丸い大きな饅頭を配っていた。仲間たちがよろよろと起き上がり両手に菓子を掴み、自分の口に押し込んでいく。あれが食べたいと体中が訴えている。唇を強く噛みしめ、目を閉じて眠っているふりをした。
一週間後に再び訪れた客は、私の顔を見て頷くと小さな包みを卓に置いた。
「化粧道具だ。これを使えば顔色が良くなったことに気づかれることはない。皆の前で走ったりしていないだろうね」
太ももを撫でながら質問する。わざとらしい嬌声を挙げる必要はない。男は筋肉の付き方を確認しているようだった。
「体力はついたと思う。走るのは無理だけど、練習してずいぶん早く歩けるようになった。あんたはあたしをどうしたいの?」
出されるいつもの豪華な食事に手をつければ、何も悩まず苦痛を感じることもない。誘惑は強烈だった。手間をかけ、ご親切にお前は地獄にいるのだと思い知らせてくれた男に問うた。
「わたしの主人が、あなたの主人と仲が悪いんだ。怪しげな薬を使って女たちを不法に働かせている証拠が欲しい。証言してくれるかい。その後は、わたしたちの仕事を手伝ってほしい。色仕掛けができる人員が足りないんだ」
地獄から地獄への誘いだが、今度の地獄には選択の自由があるようだった。
私の表情の変化を見取り、男は満足そうに頷いた。大きな袋を探り、何かを取り出した。
「道中で取ってきた。自然のものを食べるのは久しぶりだろう」
渡されたのは、朱と黄に輝く小さな産毛が生えた李だった。香りに引き寄せられるように思いきり噛みついた。果汁が手から腕にしたたり落ちるのを舌で舐め上げる。甘酸っぱい果肉は生と自由の味がした。