阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「置手紙」いとうりん
置手紙をテーブルの上に置いた。書いているうちに泣きそうになった。
明日の朝、家を出て行く。家族が寝ている間にこっそり出て行く。お父さん、高校まで出してくれてありがとう。お母さん、いつもおいしいご飯をありがとう。弟の祐介、お兄ちゃんはもう帰らないかもしれない。お父さんとお母さんを頼んだぞ。
最低限の荷物をカバンに詰めて、始発に乗るため夜明け前に家を出た。大学受験に失敗したことを、僕はチャンスだと思った。やっぱり僕にはダンスしかない。東京に行って、プロのダンサーになる。去年上京したダンス仲間のサトシ先輩が、事務所に紹介してくれるという。「東京はすげーぞ。いろんなところにチャンスが転がってる」と興奮して言った。だから僕は自分を信じて賭けてみようと思う。
まだ薄暗い庭に、李の花が白く浮かんで見えた。満開だ。春の花と言えば、わが家では桜ではなく李だった。この花が、毎年僕たちに笑顔をくれた。泣かないと決めたのに、涙が出た。でも、もう振り返らない。一張羅の革ジャンの襟を立て、駅まで一気に走った。
東京に着いたのは午前八時半で、通勤時間と重なって信じられないほどの人がいる。サトシ先輩の住む駅まで、身動きできない超満員電車に揺られ、吐き出されるように降りた。一息ついて、サトシ先輩に電話をかけた。
「おう、啓介。受験ダメだったって? 風のうわさで聞いた。えっ? こっちに来てる? マジか。じゃあ駅まで迎えに行く。午後からバイトだけど、カフェで茶でも飲もうぜ」
すっかり垢抜けていると思ったサトシ先輩は、あまり変わっていなかった。先輩が住む町も静かで、駅前に小さな商店街があって、僕の町と大して変わらない。
「なに、その荷物」
先輩が、僕のボストンバッグを指さした。
「家出してきたんだ。俺、ダンサーを目指すことにした。サトシさん、前に言ってたでしょ。事務所に紹介してくれるって」
「ええ~、マジで? いやいやおまえ、親御さんが心配するだろう。今すぐ帰れ」
「なに先生みたいなこと言ってるの。俺は本気だよ。家族には、置手紙を残してきた」
「あのね、啓介君。プロのダンサーなんて、そんなに甘い世界じゃないよ」
「だってサトシさんは成功したんだろう? ステージで踊ったんだろう? 新聞の切り抜き、見せてくれたじゃないか」
「あれは、祭のイベントで、たまたま踊っただけ。そんでたまたま写真撮られて新聞に載っただけ。俺、もうダンスやってねーから」
「だって、事務所は?」
「やめたよ。みんな半端なく上手いやつばかりだ。啓介、やめとけ。おまえ程度じゃプロにはなれない。俺が保証する」
「保証するなよ」
泣きそうだった。僕たちの中で一番上手かったサトシ先輩が通用しない世界に、飛び込む勇気はない。結局コーヒー二杯とカルボナーラを奢ってもらって店を出た。
「ちゃんと大学行けよ。おまえは俺より頭がいいんだから」
「うん。先輩も東京で頑張って」
「あのさ、さっきから東京って言ってるけど、ここ、埼玉だから」
先輩は、笑いながら見送ってくれた。なんだ。ここは埼玉か。やけに空いている電車の中で、一人で笑った。
家に着いたのは夕方だった。真っ赤な夕焼けが町を包んでいた。一泊ぐらいしようと思ったけれど、結局帰ってきた。置手紙までしたのに、東京、いや、埼玉でお茶しただけだ。
夜明け前は白く浮かび上がっていた李の花が、オレンジ色に染まっている。「おかえり」と微笑んでいるように見える。
家の中から笑い声が聞こえた。やけに楽しそうだ。家出した僕が、心配じゃないのか。カラスの声に背中を押され、気まずさを纏って家に入った。
「あっ、おかえり兄ちゃん。早かったね」
「あら、二年くらい帰らないかと思ったわ」
「頭、丸めてないんだな」
家族が笑いを堪えるように言う。テーブルの上には、僕の置手紙がある。所々赤ペンで直してある。
「啓介、誤字脱字、多すぎよ」
「僕の漢字ドリル貸そうか?」
「修行が足りんな」
家族の含み笑いが気になる。モヤモヤしながら手紙を読み返した。
『お父さん、お母さん、僕は出家します』
あっ、「家出」を「出家」と書いている。そういうことか。だからって、笑うことないじゃないか。僕は本気だったのに。
「夕飯は、精進料理にする?」と、お母さんがまた笑った。ひどいよ。
李の花だけが、僕を慰めて優しく揺れた。