阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「姿見」うえお亞維
まさかね。信じてないですよ、そんなこと。ある筈がないんですから。
でもね。生きていると、信じられないことが起きるのも事実なんですよね。
私、昨日まで普通に仕事してた会社が、今日行ったら倒産してたっていう経験してます。
朝、いつも通り出勤したら、会社の入口に「営業停止」って張り紙がしてあったんです。人間、想像以上に驚愕すると、魂を抜かれたようになるんですね。あの張り紙を見た瞬間の意識が飛んでるんです。どうやら会社が倒産したらしいという事実を、どうやって理解したのか記憶がないんです。
けれど、どんなに腑抜けになっても、人間って持ち直すことができるんですね。
会社倒産から約半年後、私は次の職場を見付け、五年経った今も、その職場で何とかかんとかやってます。因みに、今年四十歳になりました。五年間、あっと言う間でした。
で、前置きが長くなりましたが、今日は、会社の倒産話をしたかったんじゃありません。
私、また魂を抜かれるような出来事に遭遇したんです。今、さっき、そこで。信じられないくらい私にそっくりな人に出逢って。
自分が一体誰なのか、錯乱しています。
あまりの驚きに、力が入らなくなってしまったんですけれど、何とか持ち堪えて、仕事を休んででも、その人に付いて行ってみようと思ったんです。私にそっくりなその人は一体何者なのか、知らずにはいられなくなったんです。会社に体調不良で休暇を頂きたいと嘘をつき、今私は、そっくりさんの数メートル後ろを歩いています。
まさか、四十にもなって、刑事のようなことをするなんて、思いもしませんでした。しかも、自分のそっくりさんを尾行するなんて、二時間ドラマでも見たことがありません。生きていると、ドラマ以上のことが起きるんですね。
なんて、暢気なことを言ってる場合じゃないんです。そっくりさんは一体何者なのか突き止めなくては、気持ちが落ち着きません。
そっくりさんは、髪型も体型も私とほぼ一緒です。黒髪のショートカットでパーマは掛けておらず、身長は百六十センチに満たない中肉中背です。歩く速度は、早くもなく遅くもなく、尾行するにはちょうど良いので、何とか見失わずに済みそうです。
けれど、尾行に成功して、そっくりさんの正体を知ってしまうのが怖いような気もします。そんな気持ちを抱えながら、一歩一歩、そっくりさんの後ろを付けています。
そっくりさんは右折し、オフィスビルらしき建物の中に入っていきました。エントランスが広々としていて、テレビドラマに出て来そうな、素敵なオフィスビルです。
そっくりさんが、エレベーターに向かっていく姿が、ガラスの扉越しに見えます。私も、このビルで働いているかのように振る舞って、中へ入っていこうとしたんですが、そっくりさんがちらっとでもこちらを見て私に気付いたら、と考えると、何だか急に弱気になってしまいました。私は密かに、そっくりさんが何者なのかを知りたいだけなのです。
そっくりさんは、恐らくこのビル内の会社で働いているのでしょう。
結局私は、ビルの中には入らず、そっくりさんがエレベーターに乗る姿を、扉越しに見届けるに留まりました。だから、このビル内のどの会社で働いているのか分かりません。
こうなったら、そっくりさんが出てくるまで待とう、と決めました。そっくりさんが仕事を終えてビルを出て来るまでに、何時間掛かるのか見当もつきませんけれど、たった今出逢ったばかりのそっくりさんが、もう赤の他人とは思えなくなっていて、どこに住み、どんな暮らしをしているのか、知らずにはいられないのです。
今日は一日掛けてでも、そっくりさんの正体を暴く覚悟です。
そっくりさんがビルに入って、まだ三十分ほどしか経っていないのですが、どうやって時間を潰しながらそっくりさんを待とうか、途方に暮れています。
私は、仕事があまり好きではない方ですが、一つ目の会社が倒産した時には、不安でたまらなくなりましたし、今も、何もせずにそっくりさんを待っているよりは、仕事をしている方がまだましだ、と思えています。
四十歳、今だ独身の私は、いつの間にか仕事に依存していたのかもしれません。
そんなことを考えていたら、そっくりさんがビルから出て来るのが見えました。ビルに入って行った時とは違い、何だか魂が抜けたかのように力ない歩き方です。
まさか、信じてないですよ。信じられないですよ、そんなこと。ある筈ないんですから。
そっくりさんは、鏡に映った五年前の私自身の姿だなんて。