阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「鏡の中の富子」冨安妙子
夕刻、富子は一人和室に置かれた姿見の前に立つ。
この鏡は富子の祖母の形見を母から譲り受けた物だ。
年季はあるが流行に左右されない栗の木の上等な品で、枠の台座には大きな椿の花が、三輪彫られている。
開け放たれた窓からは、隣家が夕飯の支度をする匂いが漂ってきた。
「サンマに肉じゃが」
富子はボソリとつぶやく。
一人息子は就職と同時に独立し、家を出てから二年が過ぎた。富子は夫と二人だけの生活をしている。
富子はじっと姿見に映った自分の姿を見つめる。
若い頃に比べ全体的に二回り肉が付いた。特に三十代にはなかった背中や腰回りの贅肉が目に付く。顔には、口元の豊齢線がくっきりと刻まれ、重力に負けた頬の肉はたるんでいる。髪は濃い茶色に染めているが、染めないと白髪が全体の五割にもなる。
富子は食い入るように細部まで観察する。
エステに行ったことこそないが、日々の手入れを怠ったつもりはない。
しかし、年齢よりも若干老け込んだ四十五歳の女が目の前に映っている。
富子は箪笥からガーゼのハンカチを一枚取り出して、また鏡の前に向き合った。
そして、鏡に映る顔に汚れがあったかのように拭き始めた。初めは優しく、徐々に力を込めた。
富子は目に見えぬ何かに操られているかのように、ゴシゴシと入念に拭き続ける。
その作業は鏡の部分だけでなく、木枠やその彫刻の細部にまで及んでいく。
無心というより、どこか病的だ。
そして三十分も磨き続けると、その手をピタリと止めた。
富子は正座をし、その曇りなく澄みきった鏡をじっと見つめる。
「ただいま。おい、富子、いないのか?」
夫の定雄が帰ってきた。
いつもは帰宅する夫のために富子が玄関に灯りを付けておくのだが、夜の八時だというのに家は真っ暗で静まり返っている。
留守にしているのだろうか。外出の予定はないはずだが。異様な空気に定雄は息が詰まる思いがする。
会社には事故などの緊急連絡も入っていなかった。
「おーい。富子、いるのか?」
定雄は順に部屋の灯りを一つずつ付けて行きながら、富子の姿を探す。
手がかりを見落とさないように、犬のように異変を嗅ぎ取ろうと感覚を研ぎ澄ます。
台所のテーブルの上には葱や大根、卵、パックに入った豚肉がスーパーの袋に入ったまま置きっぱなしになっていた。
居間には洗濯物が綺麗にたたまれてはいるが、ソファーに置かれたままだ。富子の書き置きらしき類いも見当たらない。
普段の富子は、こんなことはしない。
食材を冷蔵庫に入れずに放って置くことはないし、洗濯物もきちんと箪笥にしまう。いつも完璧といっていいほどに家事をこなしている。まったく、富子らしくない。
定雄は体調を悪くして和室で寝ているのかもしれないと思い、そっと足音を忍ばせながら部屋をのぞく。
定雄はぞっとした。
暗い和室の中、ぽつりと富子が鏡の前で座っていた。その体は、ぼんやり光っていた。
「おい、どうしたのだ?びっくりするじゃないか、幽霊かと思ったぞ」
定雄は慌てて部屋の灯りを付ける。富子の目は虚ろでどこも見ていない。
「気分でも悪いのか?」
定雄の問いかけに富子は答えない。じっと、鏡を見つめている。定雄は富子の視線の先を同じように移すと、鏡越しに富子と自分の姿が映る。
なんだか、二人ともしょぼくれて古臭くなった気がした。
かつて富子と定雄は社内恋愛の末、結婚した。定雄は一つ年上の先輩だった。富子は新入社員の中で一番の美人といわれていた。結婚後は仕事を辞め、家庭に入ったのだった。
月日とは残酷だ。
「これ、どうぞ」
富子はどこから出してきたのかA4サイズの茶封筒を定雄の前に差し出した。その中には興信所に調査させた定雄の不貞の証拠が入っていた。
定雄は写真や調査書を取り出してパラリと目を通す。瞬く間にその表情は強張る。
富子は大きく息を吸う。
鏡の向こうには鬼の形相の富子がいた。