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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「試着室」石黒みなみ

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第46回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「試着室」石黒みなみ

「洋服を買う時は、面倒がらずに必ず試着を。試着室から出たら鏡から少し離れて、全身をしっかりチェックしましょう。よくお似合いです、という店員さんの言葉を鵜呑みにしてはいけません。鏡は正直です」

雑誌を閉じて、私はため息をついた。わかってるってそんなこと。年をとると、似合うものが限られてくる。試着してサイズが合えば、外に出て靴をはき、鏡で全身をチェックして、店員からはコーディネートのアドバイスをもらいたい。それができないから悩むのだ。

私は試着室から出たことはない。出られないのだ。出て鏡の前に立ったら店員は卒倒するだろう。吸血鬼は魂がないから鏡に映らないなんて、神様、あんまりです。

このあいだ、テレビに「美魔女」がたくさん出ていた。吸血鬼以外の魔物は魂があって鏡に映るらしく、魔女はいいなあと思っていたら、あれはどうやら人間らしい。ややこしい世の中だ。

そもそも魂って何なのだ。持ったことがないからわからないけれど、あるほうが立派だ思われているようだ。なのに、その魂のあるはずの人間たちが、凶悪犯罪を起こしたり、仕事で不正をしたりしている。そんな魂なら別になくてもいいが、鏡に映らないのは困る。ファッションだけでなく、顔色など健康管理にも必要ではないか。昔は、活動できる夜になってから窓ガラスに映る姿を見たり、月明かりで水鏡なんてこともできたけれど、老眼が進むとそれも限界だ。

自分でも何百歳かわからなくなるくらい年をとってきた上、古臭いファッションでは若い男にうまく近づいておいしい血を吸うこともできない。それで最近ろくな食事をしていないのに、なぜか太って昔のスカートが入らない。代謝が悪くなっているのだろう。鏡で見られなくても、ワンサイズ上のスカートを買わなければならない。

日が落ちるのを待って、私はデパートに出かけた。このごろデパートは夜遅くまで営業して、お日様の当たらないところで買い物ができるのはありがたい。

夜だというのに、売り場は女たちでいっぱいだった。私はラメが入ってきらきらした黒のロングスカートに吸い寄せられ、手に取った。

「よろしかったらお鏡の前で合わせてご覧くださいませ」

にこやかに店員が近づいてきた。

「いえ、けっこうです」

私は愛想笑いをしながら、慌ててその場を離れた。冷汗が流れ、気分が悪くなった。昔ならこのくらいのストレス、どうということもなかったのだが、年のせいか。それでも、あのスカートはあきらめられない。ラメ入りなら夜目にも美しく、吸血鬼の私にぴったりだ。問題はサイズだ。Lか、いや、ダメもとでMも着てみよう。店員がいなくなったら素早く試着室に持ち込もうと、少し離れたところから様子をうかがった。なんと中年の女がやってきて、あのスカートを触るではないか。それ、私のよ、と叫びたいのを抑えていると、心臓がどきどきし始めた。女はスカートを手に取り、鏡の前に立った。動悸はますます早くなり、嫌な汗まで出てくる。ふと女の前の鏡を見て驚いた。映っていない。仲間か、と思って近づきかけたが、女の胸に十字架のペンダントが光っているのが見え、飛び上がって逃げた。

売り場の端の壁際まで走った。背中に汗が流れ、動悸が止まらない。年のせいではなかった。十字架だ。いや、それだけではない。なんだ、あの女は。キリスト教徒でもないのに十字架のアクセサリーをする連中はたくさんいる。ややこしいがみんな人間だ。でもあの女は吸血鬼でもないのに、鏡に映っていなかった。何者だ。

汗と動悸が収まると、怖いもの見たさで私は売り場に戻った。店員はいたが、あの女はもういなかった。あたりの嫌な感じが消えているので、十字架のペンダントと共に遠くに行ったのだろう。スカートは元の位置にある。思わず手を伸ばすと、すぐそばの試着室のカーテンがさっと開いた。

若い女が派手なワンピースを着て出てきた。若いんだからもっとシンプルなものが似合うのに。女は靴をはき、カーテンが開いた試着室の鏡のほうを向いた。私は横からそれを見て悲鳴をあげそうになった。女の姿は映っていなかったのだ。ところが近づいてきた店員は全く驚く様子もなく、

「まあ、素敵。とってもよくお似合いです」

と言ったのだ。なんだ、こいつらは。

どうなっているんだ、とあたりを見回すと、あっちでもこっちでも女たちが鏡に向かってセーターやスカートをあてて見ているが、誰も鏡に映っていない。店員たちは平気で、ご試着どうぞ、と話しかけている。よく見ると、店員も映っていない。なあんだ、と私は思った。最近は人間もみんな、魂なんかないのだ。しかも何にも見てやしない。私だけがびくびくすることはないのだ。

私はスカートを手に取って、近くにいた別の店員に声をかけた。

「すみません、これ試着したいんですけど」

店員はにっこりした。

「どうぞ。よくお似合いになりそうですよ」

私も笑みを返し、胸をはって試着室に向かって歩き出した。