阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「私、キレイ?」いのうえちこ
「私、キレイ?」
あなた、私ね、どうしても確かめたい事があるの。そのまま、カレー食べながらでいいから聞いて頂戴。二か月ほど前、二人で頂き物のワインを飲みながら、夜更かしした事があったでしょ。あの夜あなた、珍しく私の事を見詰めてくれてるなと思ってたら、こう言ったのよ、お前も随分老けたなって。
次の朝ね、起き抜けに洗面所の大きな鏡を見てぞっとしたの。あなたの言う通り、私五十を過ぎて、何て汚くなったのかしらって。元々美人じゃないのは分かってたけど、でも昔から、白くて肌理の細かい肌にだけは自信があったのに、よく見たらもう、シミと皺だらけの酷い有様・・・ちょっと、此処は、そんな事ないよってフォローするところなのに、あなたったら駄目ねぇ。
それで私ね、早速高い化粧品を幾つか買ったの。でも無駄遣いじゃないわよ、あなただって奥さんは綺麗な方が嬉しいでしょう? 私、その日から必死に顔の手入れを始めたんだけど、一週間経っても変わりなし。がっかりして鏡を見ながら、ふと思ったの。こんな筈無い、もしかしたらこれは、鏡の方が間違ってるんじゃないかって。つまりね、本物の私は綺麗になってるのに、鏡の中の私だけが汚いままなんじゃないかと思ったわけ。
それで私、どうしたと思う? 実はね、試しにクリームを塗ってみたのよ、鏡に映った私の顔に。ちゃんと効き目はあったわよ。だって、普通なら鏡の表面にクリームがべったり残る筈でしょ、つまり、鏡の中の私の肌が全部吸収したって事よ。驚くわよね。でもそれだけじゃないの、次の朝、確かめてみたら、鏡の中の私の肌が、明らかに綺麗になってたのよ。張りと艶があって、やっぱり肌の調子って大事なんだって思った。一週間続けてみたら、前より五歳は若返って見える様になったんだから、ね、凄いでしょ。だけどあなたったら、私が綺麗になった事に、ちっとも気が付いてくれないんだもの、ちょっとがっかりしたわ。
私、それからも毎日、せっせと肌の手入れを続けたわ。毎日たっぷり使ってあげたからクリームの減りも早かったけど、それは仕方が無いわよね、だって、綺麗になる為だもの。私、鏡を見るのがどんどん楽しみになっていったわ。ひと月が経つ頃にはもう、どこから見ても三十代前半にしか見えなかった。男の人には分からないだろうけど、この、どこから見てもってところが肝心なの。歳を重ねると少しずつ上瞼が垂れて来ちゃうから、正面から見ると、しっかり実年齢がばれたりするものなのよ。ね、女って大変でしょ、大変なんだから。
でもそんな悩みのあれこれも、私とは、もう無関係。毎日綺麗になる一方だったわ。最近は毎日、一人で二時間以上も鏡を見てた。綺麗に若返った自分をじっくり眺めるのって、本当に楽しいんだもの。思いっきり笑ってみたり、わざとしかめっ面をしてみたり。皺を気にせずそんな顔が出来るなんて、もう最高の気分。それで今日もね、あなたが出掛けてから早速鏡の前に行ったら、鏡の中の私が言ったのよ。お世話になったわね、私そろそろ出て行くわって。そりゃそうよ、綺麗になって、もう一人前になったんだもの、外に出て生きて行くのが当然だわ。だから私、笑顔で見送ってあげた。ドアを閉める前に、ありがとうってお礼を言ってくれたわ、あの人。それはそれで良かったんだけど、実は一つだけ困った事があってね。ほら、鏡の中の私が居なくなっちゃったでしょ、だから、こっちに残った私の姿が鏡に映らなくなっちゃったのよ。まあね、家事をするのに支障は無いんだけど、ただ、もう自分の顔が見られないわけでしょ。だから私、どうしても確かめたい事があって。
あなた、どうしたの? 違う、冗談なんかじゃないわ、全部本当の話よ。え、嫌よ、病院へなんて行かない。だから本当なんだってば、信じてよ。手を放して、嘘なんか言ってないんだから。それなら私と一緒に洗面所へ行って鏡を見てよ。そしたらあなたにも分かるから。ええ、あなたの言う通りにする、もしも鏡に私が映ったら、大人しく病院へ行くわ。だから、ほら、鏡を見て。
ね、あなた、本当だったでしょ。あなた? あなた、大丈夫? まあ、ショックで心臓が苦しいのね、分かった、直ぐに救急車を呼ぶから、その前に一つだけ答えて欲しいの。ねえ、私、前より若返ってる? 目元の皺はどう、消えてる、この辺りにあったシミはどうかしら。ねえ、私幾つに見える? ほうれい線はどうかしら、それから・・・ねえ私綺麗?
あらやだ、あなたの瞳に私の顔が映ってるじゃない、私・・・ねえ、あなた、もう目を閉じてくれない?