阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「母」高木明日香
母は暦に日記を書くのが癖だ。自分だけの暦を持っている。見せてと言ったが、はぐらかされ、見るに至らなかった。
私と母の間に親子関係が生まれて七年程になる。私は父の連れ子で、母は初婚という結婚だった。私達親子には特別問題はないと思う。これまでに喧嘩はない。義理の母だからという理由で遠慮をしている風は感じない。
ただ、母には私達には言えない事があるようで、時折行き先を曖昧にしたまま一人ででかけることがある。私が小さい頃は我慢していたのか、そういう事はなかった。しかし、私が大学生になった今、もう彼女を家に繋ぎとめる理由がない。夜遅くなる訳でもなければ、外泊する訳でもないので、一応問題はない。
今日、母は出かけると言った。いつものように行き先を聞いたが、またはぐらかされ、気づかぬうちに家を出てしまっていた。
父は私程母の外出を気にしていない。時にはそういうのも必要だという程度に思っている。けれど私は母が家族に対して作る秘密を許容するには、大人でない。
母が出かけ、一人きりになった家で、私は母の暦のことが気になっていた。今なら見ることができるはず。持ち出す程、私達を信用していないという事はないだろう。問題は在りかだ。母は遅くとも夕方には帰宅する。簡単に見つかればいいけれど、難航は帰宅後の母と鉢合わせの危険がある。時間を確認する。十三時少し過ぎ。二、三時間はある。
母がいない時に彼女の部屋に入るのは初めてだ。ドレッサーとベッド。家具らしい家具はそれだけ。とてもあっさりとした部屋だ。結婚前の母について、祖母は実家で暮らしていた部屋は、物であふれていたと。結婚を境に物を持たなくなったという事だ。その心境の変化はどこからきているのか。子供の頃は考えもしなかった事を、二十歳になって気になり始めている。
探す場所はいくらものない。私は母の心が見抜ける経験値をもっていない。が、だからといって、このチャンスを諦める訳にもいかない。
きれいに整えられたベッドが気になった。誰かがさわればすぐにわかる場所だ。きっとここのどこかだ。間違いないと思える。
私は慎重にマットの下を探った。念入りに一周回る。手に何もふれない。見当違いだったかと思った瞬間、シーツとは違う肌触りのものにふれた。
「あった」
思わず声に出る。胸がドキドキする。好奇心で探し回った訳じゃない。母の心の中をほんの少し見たい、知りたい、それだけだ。
静かに手にふれたものを抜き出す。赤い地にカラフルな色で詩集が施されたカバーのかけられた小ぶりなノート。厚みがないので日記とは言えない。中身を読む目的ではなく、母の暦である事を確認するために、はらはらとめくった。見慣れた筆跡の小さな文字が、暦の一日、一日をきれいに埋めている。私は床に座り、覚悟を決めてノートを開いた。最初のページを開いてみる。去年の十月から始まるパターンの暦だ。一日から読み進む。穏やかな母の日常が綴られている。何も気にするような事は書いていないと思った矢先、二十八日の欄に、出会いの日と書かれていた。相手が誰なのか知りたいが、それ以外には何も書かれていない。じりじりとした気持ちで読み進む。今度は十一月の三日に最初の記念日と書かれている。この記念日は十月に出会った人との事だ。間違いない。私の感は鋭いほうだ。読み進めば進む程、記念日が増え、同時に場所の名前が書き込まれるようになる。出会った相手と一緒に行った場所だろう。出会いからひと月に一回ペースで出かける母と誰かは、どんな関係か。考えなる必要は全くない。好きな人としか思えない。母は父がいながら、好きになった人がいて、その相手と出かけているという事か。心は乱され、暦を壁に投げつけたい心境だ。
そして、今日、四月十七日、プロポーズの日と書かれている。目を疑う。母は何を考えているのか。私は堪えられなくなって母の暦をドアに投げつけた。激しくぶつかって落ちる。それと同時にドアが開き、母が入ってきた。彼女は足元に落ちたノートを拾い上げ、私の前に座った。憤慨している私に、母は困ったような笑顔を見せた。
「何笑うの?」
「見ちゃったか。恥ずかしいなと思って」
「何言っているの」
「だって、その暦にはお父さんとの事を書いているから」
「は? あっ」
私は慌てて母からノートを奪って読み進んだ。両親が結婚する事を決めた日のところに、二度目のプロポーズとある。私は二人が一度は別れている事を忘れていた。やり直し夫婦である事を、うっかり忘れていた。