阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作 「黒いしるし」香久山ゆみ
気付いたのは、偶然でした。
九月も半ば、今年もあと三ヶ月ちょっとか、とぱらぱらカレンダーを捲っていたところ、ふと目に留まった。
十一月十四日、水曜日。小さな黒い星印が書き込まれている。ひっそりと。
ふいと首を捻りました。十一月十四日? 何かあったかしら? 覚えはありません。
リビングに掛けてあるカレンダー、書き込んだのは夫でしょう。私には心当たりがありません。
どちらか、もしくは知り合いの誕生日でもない。結婚記念日でもない。私たちが交際を始めた日でもないし、出会った日でもない。初めて唇を合わせた日、体を重ねた日、違います。ならばと、二人の誕生日の中間を数えてみても合わない。こんなことを調べるために、わざわざ過去の手帳を何冊も引っ張り出してしまいました。十一月十四日、まるで見当が付かない。
「ねえ、あの印は何の意味?」
「……さあ」
夫に聞いても答えてくれません。
夫の出張の日? いえ、IT系技術職の夫が出張することはほとんどありませんし、まれにあっても「出張」と書かれます。では、夫の同窓会とか。週末遊びに来られた夫の旧友に探りを入れてみましたが、近々に計画は無いとのこと。他にも夫の予定を浮かべてみましたが、それらしき当たりはありません。
そもそも、あの黒い星印は夫単独の予定ではないはずです。ただあまりにも小さくて、もしかしたら本当は青色なのに、潰れて黒く見えるのかもしれないと思ってみただけです。
リビングのカレンダーは、私たち夫婦の共用です。夫の予定は青色、私の予定は赤色、夫婦ともの予定は黒色で記入するというルールです。だから、黒い印は私にも関係する予定のはずなのですが。
「ね。カレンダーの黒い星印。十一月十四日、何があるの?」
うん? 知らないな」
何度聞いても教えてくれない。知らないはずはないのです。あれが小さい点であれば誤ってつけられたペンの汚れかもしれない。けれど、あるのはごく小さいけれど、紛れもない星印。明らかに記入者の意図が働いています。なのに。
印の意味が分からないまま時間は経過していきます。夫は頑なに教えてくれないものの、普段と変わらぬ様子。もともと口数は少ない人です。
しかし、暦も進み、十月も肌寒さを感じるようになってきた頃、何だか少し、ほんの少しだけ、いえ私が神経過敏になっているのかもしれませんが、夫の様子がなにやらいつもと違う気がするのです。衣服に無頓着な夫がクローゼットを開けては首を傾げ、仕立てのいいシャツやコートを新調したりしている。クローゼットの隅には男性ファッション誌。夫には少し背伸びであろうハイブランドが載っている。そわそわしている。日に何度も郵便物をチェックしていたりする。
それでも夫は何も教えてくれない。私はどんどん不安になる。いつもと違う。何かがおかしい。
手応えを得ぬ私の空想はどんどん飛躍していきます。夫はなにか重篤な病気で、印の日に私に黙って手術を受けるのではないか。いやまさか。それならこのように衣類を新調しないでしょう。ならば? 妻にも言えぬ印。実は夫は殺し屋で、印の日に要人の暗殺を決行するのだ。ふっ、馬鹿な。もっと現実的に考えれば、殺すとすれば……私?
くだらない空想です。しかし、そう考えれば夫の行動もすべてそれらしく見えてくる。それに、十一月十四日は仏滅です。近づくにつれ、私の中に不安の黒い雲が充満してきます。怖い、こわいこわいこわい。十一月に入り、星印は目前に迫っています。
やられる前にやるしかない。黒い星印に至らないようにすればよいのだ。決心した私はすぐに行動しました。
事が済んだあと、コトンと郵便受けが鳴りました。夫が待ち望んでいたものが届いたのです。ふらふらと私は郵便物を取り出し、開いてみました。
かねてより私が大ファンである世界的ピアニストのコンサートチケットです。抽選で選ばれた当選者のみが招待されるプレミアムチケットです。私に秘密で夫が申し込んでいたようです。公演日十一月十四日。行かれるかどうか分からぬその日に、小さな印を付けたのでしょう。私を驚かせるために。大変驚きました。掌中の二枚のチケット。私は誰と行けばいいのか。カレンダーを仰ぎます。
十一月十四日。黒い印はもうありません。そこには夫から飛び散った赤色があるだけです。